尖塔の影が
午後の陽に長く伸びていた。
その上空──
風の流れを読むように
一羽の烏が円を描いていた。
黒曜石のような艶を持つ羽が
陽の光をまとい
時折その軌道をゆるやかに変える。
だが、ただ飛んでいるわけではない。
その瞳は、遥か下──
石畳の広場
開かれた門の先に視線を落としていた。
十一人の子供たち。
初めて踏みしめる地。
泣き出す者、立ち尽くす者、声も出せない者
そして、迎え入れる者──
黒衣の若き神父、ライエル。
空からその光景を見つめる烏は
風に煽られても羽一枚乱すことなく
じっと眼下を見守っていた。
その身はただの鳥ではない。
それは
櫻塚時也がこの地に放った式神の一体。
彼の眼でもあり、耳でもあり
意思を宿す影でもある。
──時也の命により
ノーブル・ウィルの保護と監視を担う存在。
だが、その目に映るものに
敵意も警戒もなかった。
ただ、淡々と、静謐に
在るべき変化を見届けていた。
門をくぐる子供たちの足音。
そっと伸ばされる小さな手。
ライエルがそれを受け止める様子。
職員たちの礼節ある対応。
礼拝堂から流れる穏やかな気配──
そのすべてが
この場所に〝命〟を生み始めた証だった。
烏はゆるやかに翼を傾け
尖塔の石材の隙間に音もなく降り立った。
陽に焼かれぬ位置を選び
片目で広場を見下ろす。
一度、嘴で羽を整え
再び黒曜の瞳を光らせる。
まるで、時也の心の一部が
そこに宿っているかのように。
言葉にならぬその意志が
風を伝ってどこかへ流れていく。
誰も気付かぬその高所で
烏は今日も変わらず〝見ている〟
善と偽善を、誓いと背信を、救いと報いを──
静かに見つめながら、ただ在り続ける。
それは式神。
それは影。
それは──時也の〝眼差し〟そのものだった。
⸻
「⋯⋯ふふ。順調そうですね」
そう呟いた時也の声は
包丁の音に溶けるように穏やかだった。
午前中の喧騒が去った喫茶桜の厨房には
芳ばしいバターとキャラメルの香りが
満ちている。
陽の光が斜めに差し込み
清潔な調理台の上で
薄く伸ばされたクッキー生地が
艶やかに光っていた。
時也の動きは一切の無駄がなく
まるで流れる水のように自然だった。
手首の返しで
生地の上にハートや星の型が
次々に刻まれていく。
厨房の壁に備え付けられた、縦長の細窓。
その外側
窓枠にぴたりと止まった一羽の烏が
黒曜石のような瞳で時也を見つめていた。
他の烏が空から視たすべてを
そのままこの一羽へ
そして彼へ──
静かに伝えている。
羽一枚動かすことなく
まるで
空気の一部となったかのように佇むその姿は
まさしく生命ではなく〝式神〟だった。
「時也さん
そんなにたくさん、何を作っているの?」
振り向けば
レイチェルがエプロン姿で立っていた。
両手には泡だて器とボウル。
だが中身は空で
どうやら自分の作業は
途中で放棄して来たようだった。
時也は
クッキーの天板を
オーブンに滑り込ませながら
ふわりと微笑んだ。
その瞳は
烏の報告を受けた直後とは思えないほど
柔らかかった。
「ノーブル・ウィルに
今日から子供達が住むことになりまして。
せめて最初くらいは
甘い記憶で満たしてあげたいと思ったのです」
「えっ、それって──
もしかして全部、子供たちのため!?」
レイチェルが驚いて、さらに近寄ってきた。
調理台の上に並ぶ
焼き上がったばかりのマドレーヌや
フロランタン
シナモンの香るリンツァークッキー。
それらは色も形も様々で
まるでおとぎ話の中の
お菓子の家から抜け出したようだった。
「うわぁ⋯⋯ちょっと、ずるい⋯⋯
こんなの見たら
私まで子供に戻りたくなっちゃう」
「ふふ⋯⋯では、あとで
〝こっそり〟一つ、お渡ししますよ」
小さく笑う時也の手が
冷ましたクッキーを
一枚ずつ丁寧に缶へ詰めていく。
その手つきは
まるで宝石でも扱うかのように慎重で
真心がこもっていた。
「彼らにとって、はじまりの味が⋯⋯
苦いものであってはいけませんから」
彼の背後では
オーブンの中で次の天板が
黄金色に焼き上がりつつあった。
窓辺の烏が、一度だけ軽く羽を震わせる。
それは、報告の終わりか。
それとも、時也の温もりに呼応するような
ほんのわずかな肯きだったのか──
答えは風の中に、そっと溶けていった。
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