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午后の陽が傾きかけ
石畳の坂道に長い影が伸びる頃──
その影の先を
穏やかな足取りで登っていく
二つの人影があった。
ひとりは、淡い鳶色の瞳を持つ青年。
肩にかけた大きな布袋からは
甘い香りがふんわりと溢れ
両腕にも、紙包みされた焼き菓子の袋が
いくつも揺れていた。
もうひとつの小さな影は
白い羽織に身を包んだ幼子の姿。
長すぎる袖を翻しながらも
その小さな背に抱えた箱は
驚くほど安定して揺れなかった。
「⋯⋯時也様
本当にこれほどまでに詰め込まなくとも」
「子供たちが、どんな顔をするか⋯⋯
想像するだけで
嬉しくなってしまったのです」
肩越しに優しく笑う時也に
青龍は呆れたように鼻を鳴らした。
だがその顔は、確かにどこか緩んでいる。
やがて坂を登りきると
広場の向こうに灰白の建物が姿を現す。
尖塔を掲げたその教会兼孤児院の窓辺には
陽が穏やかに差し込み
まるでこの時間を祝福するかのように
バラ窓のステンドグラスが
地面に色とりどりの光を落としていた。
開かれた門の向こう──
子供たちの声が、微かに響いてくる。
笑い声、誰かを呼ぶ声、小さな足音。
それらが
この建物に〝生活〟というものを
確かに刻み始めた証。
数時間前まで無垢だった空間に
いくつもの命が色を塗り始めている。
時也はその音を聞いた瞬間
ふと足を止めた。
一歩先で歩みを止めた彼の背を
青龍が見上げる。
「⋯⋯どうかなさいましたか?」
「いえ、ただ⋯⋯嬉しくて。
あの〝器〟に、命が宿った音がしたのです」
言葉にこそしなかったが
青龍にも分かっていた。
時也の瞳が細められたのは
警戒でも哀しみでもない。
それは、ただ純粋な〝安心〟だった。
再び歩き出すと
敷き詰められた石畳が
足音を優しく吸い込んでいく。
扉の前で出迎えたのは、黒衣の若き神父──
ライエルだった。
彼は、少し驚いたように目を見開き
それから穏やかな微笑みを浮かべる。
「⋯⋯ようこそ、時也様」
「お邪魔いたします。
あの子たちの顔を、少しだけ見に」
「ええ。お待ちしておりました」
その短いやり取りの間に
青龍はすでに大荷物を解き始めていた。
焼き菓子の詰まった箱
甘い紅茶の香りがする瓶詰
そして色とりどりの果物ゼリー。
「そちらは⋯⋯?」
「ささやかな贈り物です。
初めての夜に
少しだけ〝特別〟を添えられればと」
ライエルの目がわずかに潤む。
だがその感情はすぐに隠され
彼は笑顔のまま頭を下げた。
「きっと、子供たちは生涯忘れません。
〝世界は優しい〟と
信じられる夜になります」
扉が開き
館の中から熱気と笑い声が溢れ出す。
廊下の向こうで遊ぶ子供たちが
見慣れぬ二人に気付き
興味深そうに駆け寄ってきた。
「だれー?」
「おにいさん!それ、なに?」
時也は、屈み込むと優しく笑った。
「こんにちは。
君たちの為に、おやつを持ってきましたよ」
「おやつ!?ほんとに!?」
歓声が一気に上がり
子供たちは周りに集まってくる。
彼らの無垢な笑顔が、まるで灯のように
廊下の奥まで届いていった。
──この場所が
確かに〝家〟となった瞬間だった。
そして、その静かな夜の入り口に
〝優しさ〟という名の手土産が
確かに刻まれたのだった。
⸻
夕暮れの光が
石造りの街並みに
琥珀色の影を落とす頃だった。
空にはまだ柔らかな残照が残っていたが
道の奥には既に夜の気配が忍び寄っていた。
その静けさを破ったのは、小さな足音。
「⋯⋯あれ⋯⋯?」
少年は、ひとりきりだった。
歳は五つにも満たないだろう。
茶色の髪は寝癖のまま跳ね
制服の裾も片方だけめくれていた。
大きなビー玉のような瞳が
不安と焦りに揺れている。
ほんの数分前──
中庭で遊んでいた最中
ひとりが蹴ったボールが
石畳の坂を転がり出て行った。
「ボクがとってくる!」
と走り出したのはよかったが
見慣れぬ分かれ道を曲がった先で
急に風景が変わった。
高い建物、閉まった扉、見知らぬ匂い。
振り返っても
どこを戻ればよいか分からない。
「⋯⋯ライエルせんせぇ⋯⋯」
小さく名前を呼んでみるが、返事はない。
空の色が赤から紫へと変わるたび
周囲の物音も遠のいていく気がした。
その時──
カサリ。
頭上から、柔らかな羽音がした。
少年が顔を上げると
電柱の上に一羽の烏が止まっていた。
艶やかな漆黒の羽が
夕陽に照らされて赤銅色に縁どられている。
だがその佇まいは、どこか──
人を観察するような理性と意志を感じさせた。
「⋯⋯くろい、とりさん?」
少年が呟いた瞬間
烏は羽をひとつ震わせ
すっと電線から飛び降りた。
だが羽ばたくことなく
ふわりと風に乗るようにして
数歩先の石畳に舞い降りる。
一歩だけ、少年の方へ。
そして
くるりと向きを変え、再び歩き出す。
(ついておいで)
言葉にならぬその動きに
不思議と少年は恐れを抱かなかった。
ただ、直感的に
「ああ、この鳥は、ぼくを知ってる」
と思ったのだ。
「ま⋯⋯まってよぉ⋯⋯!」
小さな靴音が
烏の後を追うように石畳を叩く。
烏は早すぎず、遅すぎず。
何度も後ろを振り返りながら
曲がり角を示し、街灯の下をくぐる。
時折、ほのかに風が吹き
遠くから鐘の音が聴こえた。
それはまるで
〝戻っておいで〟と呼ぶ
誰かの声のようにも感じられた。
やがて、見覚えのある広場が見えてきた。
そして──尖塔の影。
灰白の壁。
あの、暖かな窓。
「あっ⋯⋯!」
少年は思わず声を上げて駆け出した。
門の前で
誰かがこちらへ向かって走ってくる。
「そこにいたのね!」
息を切らしたシスターの腕に
抱き上げられた瞬間
少年はようやく泣き出した。
「ごめんなさい⋯⋯ぼーる、とりに⋯⋯
でも、わかんなくなって⋯⋯っ」
「いいの、大丈夫。
よく、戻ってきてくれたわね」
そのやり取りを
石垣の上から見下ろしていた烏が
一度だけ低く鳴いた。
カァ──
短く、力強く。
その声は
すぐ近くの上空にいた
もう一羽の烏へと受け継がれ
彼方、喫茶桜の裏手に佇む櫻塚時也のもとへ
すべての出来事を報せに向かう。
門の影で
その烏が羽ばたくのを見届けると──
少年は
涙の跡が残る頬に笑みを浮かべて呟いた。
「くろいとりさん⋯⋯ありがと」
その言葉が届いたかどうかは、分からない。
けれどその夜、少年の夢には
柔らかい羽音と
夕陽の中を舞う黒い鳥の姿が
──いつまでも、やさしく寄り添っていた。