気持ちを落ち着けるように、ゆっくりと進んで行くと、廊下の突き当りにドアが見えて来た。一枚板らしいドアに、意匠を凝らしたドアノブ。
このドアの向こうに、自殺した住人の幽霊が? いやいや、そんなわけがない。あんなものは、誰かがふざけて言い出した、ただの作り話。ようするに、でたらめだ。
かつての住人が使っていたのは本当かもしれないが、どうせ埃が積もった無人の部屋があるだけに決まっている。
そう思いながらも、胸がドキドキする。一度、大きく深呼吸をしてから、伸は、ドアノブに手をかけた。
埃臭く、空気の淀んだ暗い部屋があるはずだった。だが、そこは、伸が思っていたのとは、まったく違っていた。
ドアを開けた瞬間、まばゆい光に目を射られ、反射的に目蓋を閉じる。次に、腕をかざして光を遮りながら、薄く目を開けた伸は、思わず声を漏らした。
「あ……!」
予想もしなかった光景に、頭の中が真っ白になる。
天井から下がっている、キラキラと輝くアンティークなシャンデリア。淡いブルーで統一された室内は清潔で、かすかに甘くさわやかな香りがただよっている。
そして、キングサイズのベッドの上で身を起こし、驚いたようにこちらを見つめるのは……。
長めの髪に縁取られた、白く小さな顔と、とろりとした光沢のあるオフホワイトのパジャマに包まれた華奢な体つきから、一瞬、少女だと思ったのだが、よく見ると、それは少年だった。
直線的な眉と通った鼻筋に対し、憂いをおびた目元と、ふっくらとして赤い唇が、アンバランスな魅力を醸し出している。
「あの、えぇと……」
予想外の展開に、どうしていいかわからず、しどろもどろになる。一気に冷や汗が噴き出す。
少年が、わずかに首をかしげながら言った。
「君、誰?」
「あっ、俺は、安藤伸です。えぇと、なんかすいません。あの……」
あたふたする様子がおかしかったのか、少年が、ふわりと笑った。その笑顔に、伸は釘付けになる。
「安藤、伸くん?」
「あっ、はい」
少年は、笑顔をたたえたまま言った。
「僕は、行彦」
そのとき、窓に何かがコツンと当たる音がして、思考停止状態になって少年を見つめていた伸は、我に返った。おそらく、松園たちのうちの誰かが、窓に向かって小石でも投げたのだろう。
行彦が、怯えたように、伸と窓を見比べる。伸は、つかつかと窓に歩み寄り、厚地のカーテンを引き開けた。
下を覗くと、暗い地面から、松園たちがこちらを見上げている。馬鹿なやつらだ。
伸は、懐中電灯を持ち上げ、下に向かって照らす。小さな光は地面まで届かなかったが、ここに伸がいることはわかっただろう。
見上げると、木立の向こうの空に、大きな満月が輝いている。
懐中電灯のスイッチを切って、行彦に向き直る。
「えぇと、誰もいないと思ったから、急に入って来てすいませんでした。帰ります」
ぺこりと頭を下げて、伸はドアに向かう。まさか人が住んでいるとは思わなかったが、三階だけを使って生活しているのかもしれない。
こんなことをして、不法侵入もいいところだ。いや、たとえ空き家でも、不法侵入は変わらないのではないか。
だが、ドアノブに手をかけようとしたとき、背中から声をかけられた。
「待って!」
振り向くと、行彦がベッドから下りるところだった。裸足のまま、こちらに数歩近づきながら言う。
「まだ行かないで」
「でも……」
そろそろ戻らないと、また松園たちに、どんな難癖をつけられるかわからない。
行彦の瞳が、悲しげに揺れた。
「ずっと一人ぼっちだったんだ。伸くんと、もう少し話がしたいな」
潤んだ瞳から、今にも涙がこぼれ落ちるのではないかと心配になる。伸一人ならば、それもかまわないのだが。
「でも、もう、行かないと……」
「それなら」
行彦が、すがるような目で見ながら言った。
「また来てくれる?」
「あ……うん」
思わずつぶやくと、行彦は、ほっとしたように微笑んだ。
「よかった……。明日のこの時間に、またここに来て」
もう一度ここに来るという発想は、今の今までなかったが、彼がそう言うのなら、それもいいと思う。
「わかった」
「じゃあ、指切りしよう」
行彦が一歩近づくと、甘くさわやかな香りが濃くなった。間近で見つめられ、戸惑っている伸の目の前に、行彦は、細く白い小指を差し出した。
怪談話なんかではなかった。なんのことはない。人が住んでいるのだから、夜になれば灯りが点くのは当然だ。
ほとんど廃墟の様相を呈している一階部分を見ているので、三階に人が住んでいるということに違和感を覚えはしたが、何か事情があるのだろう。
行彦がいた部屋は、清潔で居心地がよさそうだったし、ほかの部屋には家族もいるのではないか。
ずっと一人ぼっちだと言っていたが、伸はそれを、友達がいないという意味だと受け取った。それならば、伸だって同じだ。
松園たちには、行彦のことは話さなかった。そんなことを話さなければならない義理はないし、いつまでも勝手に幽霊がいると思っていればいい。
彼らにしてみれば、伸が恐怖のあまり三階の部屋までたどり着けず、みっともなく許しを請うことを期待していたのだろうが、思惑が外れて拍子抜けしたようだった。
「もう帰ろうぜ」
松園が、つまらなそうに言ったのを機に、伸が三階の角部屋まで行ったことには、なんの言及もないまま、彼らは洋館を去って行った。
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