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『ミュージシャン大歓迎』と朱太文字で広告するこのマンションは、その謳い文句通り、各部屋防音バッチリの実に『ありがたい』物件である。
心地よい静寂の中、レースカーテンでいくらばかりか緩和された朝の日差しを背に受けつつ、コーヒーを片手に報告書を纏めた結月は宛先を念入りに確認し、「えいや」と送信ボタンをクリックした。
開封用のパスワードは事前に郵送済みである。このやり方は、『師匠』がこの職を担っていた時から変わっていない。
マウスから手を放し、両手で包んだマグカップから立ちこめる湯気を吹いて冷ましながら、腰掛けた椅子を手持ち無沙汰に回転させる。キリキリと鳴るパイプの軋む音を小鳥の囀り代わりにしていると、十数分後、開いたままのメールボックスが新しい受信を告げた。
宛先には先程のアドレス。クリック二回で表示された入力ボックスにパスワードを打ち込めば、開かれたメールには確認完了の報告と、残り半分の依頼料を振り込んだ旨が記載されていた。
結月はマウスに手を乗せたまま、仕事用のネット口座を確認した。連絡通り、過不足無く振り込まれた金額が新たに表示されている。
やっと終わった。マグカップを机上に置いて両腕を頭上に伸ばしてから、倒れ込むように壁際のベッドにダイブした。
特に問題がなければ、必要以上のやり取りは行わない。それも、『師匠』の時から変えていないルールである。
結月の仕事は情報屋だ。依頼を受け、文字通り様々な手段を使い依頼主の望む情報を手に入れ、報告し、報酬を得ていた。
表立って公言できるような生業ではないため、当然、広告などは一切出していないが、『師匠』の時から変わらない成功率が功を奏し、今では日陰界隈のちょっとした有名ドコロである。
最近では、多い時は三日に一度は依頼が舞い込んで来ていた。情報社会と言われる世の中、秘めやかに手に入れたい情報もごまんとあるのだろう。
「あー……つっかれた」
仕事はないよりもあった方がいい。だが、内容が内容なだけに、たった一度の『仕事』で神経も身体も摩耗する。
どうせ誰にも聞こえないしと独り言を盛大に零して、結月は下敷きにした掛け布団の温もりに誘われるまま、瞼を下ろした。
確か、次の依頼はまだ届いていなかった筈だ。
(ちょっと寝よっかな……アイツ、ねちっこかったし)
品行方正な息子殿は余程『溜まって』いたらしく、部屋に着くなり「慣れない酒に体調を崩した」と手早く何処かへ連絡をいれ、結月が浴室から戻るなりその身体を飽く無く抱いた。男は初めてだったろうに、余程具合が良かったらしい。
最中の睦言に紛れ込ませ引き出した社長殿の情報は、当初の予定を遥かに超えお釣りがくる程だ。熱と欲に霞がかった脳では、正常な判断は困難になる。
結月が部屋を出れたのは、息子殿が眠りについた午前三時過ぎだった。そこから帰路につき、資料を纏め、仮眠をとって再チェックからの、仕事終わりだ。
今寝ないで、いつ寝る。
朦朧としてきた意識を気持ちよく手放そうとした刹那、不意に部屋の呼び鈴が響いた。
しつこい新聞屋の勧誘だろうか。居留守を決め込もうと布団に顔を埋めるも、数秒後に、またチャイムが鳴った。
控えめな鳴らし方に新聞屋じゃないなと脳内でバツをつけ、結月は渋々身体を起こした。
「ったく、折角いい感じだったのに」
企業勤めの会社員ならば始業の時刻を過ぎた頃合いだろうが、結月には関係ない。欠伸をかみながら邪魔された不満に大股で扉に向かい、覗き穴から不躾な来訪者を確認した。
途端、結月は息を止めた。
ドアの向こうには、黒いスーツを着込んだ黒髪短髪の男が一人。その後ろに、灰色のスーツを纏った男がもう一人控えているようだが、そちらは顔までは確認できない。
警察だろうか。ならば、通す前にパソコンのデータを消去するウイルスを突っ込まないと。
知り合いから買い取ったUSBの在りかを想起しながら動向を注意深く伺っていると、手前の男がトランプ程の大きさのカードを覗き穴にそっと掲げた。
描かれていたのは、見覚えのある『土竜』の画。
(っ、『客』か)
『土竜』は仲介屋のコードネームを示している。そしてこうして、家に人をよこす時は『正式な』手順を踏んだ証として、土竜のカードを客に持たせるのだ。
電子だけのやり取りが主流となっている近年、こうして高い金を仲介屋に支払ってまで家を訪ねてくる『客』は久しい。
「……どーぞ」
扉を開き、入室を促すと、結月の姿をみとめた黒い男がわかりやすく瞠目した。
これまで何度も見に受けた覚えのある反応を懐かしく思いながら扉を完全に開け放つと、黒髪の男が後方を見遣った。結月はつられるように顔を上げ、視界に入った顔に息を詰めた。
ミルクキャラメル色の髪。観察するようにじっと見据える双眼は、昨晩と同じく感情が見えない。
――あの男だ。
「お、えっ!?」
「入るぞ」
「あ、ちょ! どうぞ!?」
驚愕の訪問者に狼狽える結月の前を、男は悠然とした足取りで通り過ぎ、一寸の躊躇いもなく靴を脱いで上がっていく。
靴を揃える仕草に育ちの良さが垣間見えて、ああやっぱり良いトコ出の人かと場違いな感想を思考の隅に浮かべながら、それよりも現状を把握せねばと必死に脳を動かす。混乱に固まる結月を気遣ってか、黒髪の男は「すみません」と頭を下げて通り過ぎた。
ともかく、『カード』を持っている以上、彼らが『客』である事に違いはない。
そう無理やり自身を納得させ、結月は嘆息しつつ扉を閉めた。
「適当に座って」
作業机とベッドの間、部屋の中央に位置するカーペットの上には正方形のローテーブルを置いていた。来客用の座布団を二つ並べ佇む二人に着席を促し、壁側に位置するキッチンとを隔てるカウンターをまわって、冷蔵庫を開ける。
取り出したのは結月が常飲している、近所で一番安い緑茶のペットボトルだ。戸棚から下ろした三つのグラスに注いで、二つを持って彼らの元へ向かおうと顔を上げると、例の男の視線とかち合った。
……ずっと見ていたのか。
拭いきれない警戒を纏ったまま、歩を進める。