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「……ウチにはこれしかないよ」
暗に高い茶を所望なら飲むなと含みながら机上に置くと、黒髪の男は律儀に「ありがとうございます」と頭を下げた。
どうやら力関係は、例の男の方が上のようだ。
踵を返し、自身の分のグラスを片手に戻った結月がパソコン前の作業椅子に腰掛けると、沈黙を保っていた例の男が口を開いた。
「お前、いくつだ」
「え、唐突に? ……二十三だけど」
「……成人してたのか」
「童顔で悪かったね」
常に纏わりついていた視線の正体はコレか。
こういった類の指摘は慣れたもので、特に気を悪くするでもなく結月がグラスのお茶を含むと、黒髪の男が名刺を懐から取出し机上に置いた。
「ご挨拶が遅れ申し訳ありません。私はウイラホールディングスで社長補佐を勤めております、磯崎逸見(いそさきいつみ)と申します。こちらが社長の、安良城仁志(あらしろひとし)でございます」
「ウソ、社長サマ直々に来ちゃったの? 大丈夫?」
こういった『裏仕事』を依頼するのは社長であっても、実際のやり取りには『窓口』を立てるのが基本だ。
口先だけの心配を連ねた結月に、逸見は苦笑を浮かべた。
「社長たってのご希望でしたので。勿論、こちらのご迷惑にはならないよう、出来る手は打っております」
「……社長補佐も大変だね」
「逸見」
仁志の声が会話を遮る。
結月は一瞬、逸見が咎められたのかと思ったが、どうやら本題に入れとの合図だったらしい。
頷いた逸見は横に置いていた鞄を開くと、小型のティッシュボックスのような茶封筒を三つ机上に並べた。
仁志が結月を見遣る。
「三百万ある」
「さっ!?」
「お前を一ヶ月間、専属として雇いたい」
「……それは新しいパターンだ」
突拍子ない依頼に呆然と呟いた結月に、仁志はやはり淡々と「悪い話ではないだろう」と重ねた。
***
冗談のような黒塗りの車が滑るように停止したのは、結月も耳にしたことがある一等地に高々とそびえ立つ、高層マンションの地下駐車場だった。
広々とした専用スペースはどう考えても個人所有の空間で、ならこのフロアにある車は全部仁志の所有物なのかと、結月は信じられない思いでいた。
セキュリティ用のカードリーダーを通し先導する逸見が、エレベーターへと促す。高級ホテルのような仕様に唖然としながら乗り込むと、次に扉が開いたのは最上階のフロアだった。
「こちらの階は、仁志様の居住区になります」
逸見の言葉に、結月の理解は数秒遅れた。
「……は? 階、ってことは、このフロア全部?」
「はい。正確には、こちらのマンションは仁志様の所有物になります」
「はぁ!?」
わけがわからない。
目を見開いて硬直する結月に、逸見はクスクスと笑いながら「どうぞ」と先を促す。
殆ど無意識に踏み出しながら結月は首だけで振り返り、自身の話題だというのに興味なく沈黙を保つ仁志に、困惑の表情を向けた。
「あんた、何者?」
「さっき逸見が説明しただろう」
言葉に思い起こしたのは、結月が仁志達と共に自身の家を出てからの出来事である。
左ハンドルではない事に微かな落胆を覚えながら、カバンひとつだけを手に結月は大人しく後部座席に乗り込んだ。
明らかな高級感を直に伝えてくる革張りのシートは些か収まりが悪かったが、こんなのそうそう出来る経験じゃないと、結月は高揚していた。
横に座る仁志の妙な威圧感を受け流しながら、薄茶色の窓の外で流れていく昼間の景色を社長気分で眺める。
そのまま沈黙を保っていても良かったのだが、ふと、湧き出た好奇心に結月は口を開いた。
「ウイラホールディングス? って、有名なの?」
名刺は既に返している。『万が一』を考え、客の情報は出来るだけ残さない主義だ。
隣の仁志はチラリと結月を視線で捉えただけで、返答したのは運転席でハンドルを握る逸見だった。
「ホテル事業を中心とした経営を行っていますので、一般のお客様には、ホテル名でご認識されている方のほうが多かと思います。ですが、所有しているホテルにて共通で実施している会員サービスでは、今でも沢山のお客様にご入会頂いております」
「なるほど。おれの基準では十分『有名』の部類だね」
大金をポンと提示して裏稼業の人間を一ヶ月雇い入れようというのだ。半端な『有名度』では出来ないだろう。
結月はそう、その場では納得し、それなりの金持ちなんだろうとは思っていた。
が、まさかここまで別次元だとは。
仁志は尻込みする結月にそれ以上何を言うでもなく静かに歩を進め、一番奥の扉の前に立つと、胸元から小ぶりのカードを取り出し差し込んだ。
ピーッと解錠を知らせる電子音が長い廊下に木霊し、扉を開くと、立ち竦む結月に視線で入室を促す。
社長サマ直々に解錠頂けるとは、なんとも贅沢なご身分だ。
調子のいい思考で無理やり自身を奮い立たせ、結月は顔を上げ部屋へと踏み込んだ。
第一印象は、とにかく広い。
結月の部屋の二倍以上はあるだろうリビングは白が基調で、開放感のある窓からは惜しみなく陽光が降り注ぎ、明るく清浄な雰囲気に包まれている。
四人がけのダイニングテーブルの後方にはローテーブルが置かれ、その間のソファーには落ち着いた色のクッションが数個積まれており、見るからに柔らかそうだ。
備え付けのシステムキッチンは、その上で大の字になれそうなほど広々としている。
逸見の説明を受けながら別室に設けられた寝室を覗き込むと、シンプルな鏡台と、ダブルサイズのベッドが鎮座していた。
物珍しさにちょこまかと探索し、満足してからリビングに戻る。すると、待っていたかのように、ソファーに腰掛けていた仁志が結月を見据えて口を開いた。
「ここを好きに使っていい」
「まじか!?」
結月が驚愕に肩を揺らすと、湯のみを乗せたお盆を手に、逸見が柔らかく瞳を緩めた。
「何かありましたら、遠慮なくお声がけください。出来る限り対応させて頂きます」
白い空間が相まって、笑みを浮かべる逸見が聖人のように見える。
天使か。はたまた、悪魔か。