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帝都に春の訪れを告げる風が吹き抜けるころ
九条家の広大な庭園では、樹齢を重ねた枝垂れ桜が淡い紅色の雨を降らせていた。
ひらひらと、無数に舞い散る花弁は
まるで祝福の散華のようでもあり、あるいは儚く散りゆく運命の予兆のようにも見える。
女学校を卒業したばかりの私・桜子は、主を失ったかのように静まり返る縁側に腰を下ろし
手元の刺繍に意識を埋没させようとしていた。
針を通すたびに、絹布が微かな音を立てる。
描いているのは、二羽の比翼の鳥。
けれど、その一針一針を進める私の指先は、春の陽気とは裏腹に
氷に触れたかのようにわずかに震えていた。
「ただいま、桜子。……そんなに根を詰めたら、体に悪いよ」
ふわりと、頭上から春の陽だまりを溶かしたような声が降ってきた。
心臓が跳ね、手元が狂う。
顔を上げると、そこには見間違えようはずもない
私の人生のすべてを縛り、そして彩る『運命』が立っていた。
真壁志進
海軍の若き将校であり、私が産声を上げたその瞬間から定められていた、私の婚約者。
一点の曇りもない白を基調とした端正な軍服。
その肩に飾られた金色の飾緒が、午後の光を反射して眩しく煌めいている。
彼は、絵画から抜け出してきた貴公子のように、少し困ったような
それでいて見る者の心を蕩かすほどに優しい笑みを浮かべて私を見つめていた。
「志進様……!お帰りなさいませ。遠征、お疲れ様でございました」
弾かれたように立ち上がった私を、彼は制するように片手を挙げる。
「ありがとう。君の顔を見たら、蓄積していた疲れなんて、潮風に吹かれた霧みたいにどこかへ行ってしまったよ」
彼は当たり前のように私の隣に腰を下ろした。
微かに漂う、潮の香りと、彼が愛用している石鹸の清潔な匂い。
志進様は、脱ぎ捨てた軍服の手袋を傍らに置くと
節の立った細く長い指先で、おずおずと固まっている私の頬に触れた。
「少し、痩せたかな?」
「え?そ、そうでしょうか」
「ちゃんと食べてる?」
「は、はい、でも志進様がいなくて、少し、寂しくて…」
「僕のいない間、寂しがってくれたのなら嬉しいけれど……困ったことがあったらいつでも言うんだよ?」
触れられた場所が、火がついたように熱を帯びる。
彼はいつもこうだ。
呼吸をするのと同じくらい自然に甘い言葉を紡ぎ
まるで壊れやすい硝子細工の宝物を扱うような、痛いほど丁寧な手つきで私に触れる。
(……でも、これはきっと義務的なもの)
胸の奥が、鋭い針で刺されたようにチリリと痛んだ。
志進様は、あまりにも真面目で、高潔すぎる方だ。
親同士が決めた「完璧な婚約者」という役割を
彼はその天性の誠実さで、完璧に演じ切ろうとしているだけ。
その献身的な優しさの裏に、私という一個人の女性への『恋』なんて
果たして一滴でも混ざっているのだろうか。
役割としての愛情。
義務としての慈しみ。
そう思うと、向けられた慈愛に満ちた眼差しが
何万光年も先の星のように、酷く遠いものに感じられてしまう。
「桜子? どうしたんだい、顔色が悪い。……あぁ、婚礼の準備が忙しすぎたかな。僕が長く家を空けていたせいで、苦労をかけてごめんね」
志進様が心配そうに顔を覗き込んでくる。
その長い睫毛の影が、彼の美しい肌に落ちた。
私は慌てて、心に張り付いた影を隠すように首を横に振った。
「いいえ、そんなことは。……楽しみにしておりますから」
吐き出した言葉は、自分でも驚くほど空虚に響いた。
嘘だ。私が楽しみにしているのは、貴方と一緒にいられる未来。
けれど、もし貴方の心に別の誰かがいたとしたら。
この『約束』という名の鎖で貴方の翼を縛り続けているのだとしたら
私は世界で一番、身勝手で強欲な罪人だ。
「……よかった。君がそう言ってくれるなら、僕も安心だよ。この家に戻ってくることだけを支えに、荒波に耐えてきた甲斐があった」
志進様は満足そうに目を細めると
#王子
#シリアス
私の黒髪に紛れ込んでいた桜の花びらを、愛おしそうに指先で取り除いた。
その瞳は、南方の海のように深く、吸い込まれそうなほど澄んでいる。
けれど、その水底に潜む本心までは
幼馴染として育った私にも、どうしても読み取ることができなかった。
「さあ、お茶にしようか。銀座の松屋で、君の好きなカステラを買ってきたんだ。……僕たちの新しい門出の話をしながら、ゆっくり食べよう」
優しく差し出された、大きく温かいその手を取る。
指先から伝わる彼の体温は、確かに熱い。
それなのに、私の心には冷たい春の嵐が吹き荒れていた。
私たちは、親が決めた『婚約者』という名の、美しくも残酷な檻の中で。
互いの本当の声を胸の奥底に閉じ込めたまま
後戻りのできない運命の渦へと、ゆっくりと足を踏み出そうとしていた。