テラーノベル
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#王子
#シリアス
日曜日の銀座は、狂おしいほどの活気に満ちあふれていた。
モダンな洋装を完璧に着こなしたモガやモボたちが石畳を闊歩し
馬車の蹄の音と、輸入されたばかりの自動車の野太い警笛が入り混じって
時代のうねりのような喧騒を作り出している。
私は、この日のために新調したばかりの、淡い桃色の小紋を身に纏っていた。
春の霞を形にしたような色合いに、お気に入りの刺繍が入った帯をきつく締め直す。
隣を歩く志進様は、今日は凛々しい軍服を脱ぎ捨て
仕立ての良い漆黒の三つ揃えの背広に身を包んでいた。
「似合っているよ、桜子。今日の君を見ていると、春の精が銀座の街に舞い降りてきたのではないかと思ってしまうな」
志進様は、街ゆく人々が思わず足を止めて振り返るほどの穏やかで気品に満ちた微笑みを私に向ける。
その言葉に、おそらく嘘はないのだろう。
彼は幼い頃から、私の髪飾りの変化や着物の色合わせを、誰よりも早く、そして一番に褒めてくれる人だった。
「ありがとうございます。志進様も……その、洋装がとても似合っていて、いつもとはまた違う、大人の男性の趣がします」
「そうかな? 君にそう言ってもらえるのが、僕にとってはどんな勲章よりも価値のある報酬だよ」
彼はさりげなく車道側に立ち、私の歩調を細やかに量りながら、ゆっくりと歩を進める。
人混みで肩がぶつかりそうになれば、そっと壊れ物を守るように私の肩を抱き寄せ
危険が去ればすぐに「失礼」と、非の打ち所のない紳士的な距離感で離れていく。
(……どうして、そんなに完璧に振る舞えるんだろう)
その隙のなさが、今の私には酷く空恐ろしかった。
百貨店の婚礼調度品売り場で、私たちは並んで漆器や重厚な反物を眺めていた。
初老の店員が「本当にお似合いの、仲睦まじい婚約者様ですね」と目を細めて微笑むと
志進様は少しだけ、誇らしげに目を細めて答えた。
「ええ。彼女を幸せにすること、そして、この笑顔を守り抜くことが、僕に課せられた一生で一番の大切な任務ですから」
その瞬間、胸の奥が、氷の塊を無理やり飲み込んだように冷たくなった。
『任務』。
その、あまりにも事務的で硬質な響きを持つ言葉が、私の鼓膜に鋭く突き刺さる。
志進様にとって、私を慈しみ、大切に扱うことは
上官からの命令を忠実に遂行するのと同じことなのだろうか。
そこに、彼自身の「意志」や、役割を越えた「熱情」は存在しているのだろうか。
もし、この婚約がなかったとしても、貴方は私をその腕で抱き寄せてくれたのだろうか。
「志進様……あの」
「ん? 何だい、桜子。…あぁ、喉が渇いたかな? 向かいの資生堂パーラーで、冷たいソーダ水でも飲んでいこうか」
彼は私の微かな表情の変化を敏感に察し、困ったような、でも慈しむような特有の眉の下げ方をする。
どこまでも優しい、理想的な婚約者。
その時、不意に大きな荷物を抱えた配達夫が、荒々しい足取りで私たちの横を通り抜けようとした。
「おっと、危ない!」
志進様が素早く私の手首を掴み、ぐいと強引なまでの力で自分の方へ引き寄せた。
勢い余って、私の胸が彼の厚い胸板にぶつかる。
鼻腔をくすぐる石鹸の清潔な香りと、上質な背広越しに伝わってくる彼の肌の、驚くほど高い熱。
「……あ、ご、ごめんなさい」
弾かれたように見上げれば、至近距離に彼の瞳があった。
いつもは春の海のように穏やかなその瞳が、一瞬だけ、焼き付くほどに熱く
射抜くような鋭い光を帯びたように見えた。
掴まれた手首に、逃がさないと言わんばかりの力がこもる。
痛いほどではない。
けれど、彼の指先から微かな震えが伝わってくるような───
「……こっちこそごめん。少し力が入りすぎたね。怖がらせちゃったかな」
「い、いえ!」
けれど、次の瞬間には、彼はいつもの「温厚な優男」の仮面を被り直していた。
するりと私の手首を離し、何事もなかったかのようにネクタイの結び目を整える。
「怪我はないかい? 万が一にも、僕の大切な君に傷でもついたら、嫌だからね」
その言葉は、どこまでも慈愛に満ちていた。
けれど、離された指先のあとに残った熱い痺れが、かえって私を深い孤独へと突き落とした。
触れたいのに、決してその一線を踏み越えてはくれない。
優しくされればされるほど、敬われればされるほど
私たちの間にある「婚約者」という目に見えない、美しく巨大な壁が
より高く、より厚くなっていくのを、私は絶望的な心地で感じていた。
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