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最初に異変に気づいたのは、ハリーではなく、屋敷しもべ妖精のほうだった。
透明マントの下で、ハリーは中庭の端に身を潜めていた。
祝宴の飾りつけはあまりにも整っていて、白い花も、銀の装飾も、磨き上げられた石畳も、そのすべてが今日という日を当然のものとして受け入れているように見えた。
その中で、ドラコだけが明らかに異物だった。
礼服は完璧だ。
髪も整えられ、姿勢も崩していない。
だが、遠目に見ても分かるほど顔色が悪い。頬はこけ、目の下には深い影が落ちている。立っているというより、立たされている。そういう身体の硬さがある。
ハリーはその姿から目を離せなかった。
その時、足元で小さな物音がした。
振り向く間もなかった。
小さな影が、透明マントの裾の動きを見逃さなかったのだ。
屋敷しもべ妖精が、ぎょっと目を見開いた。
次の瞬間、その顔が恐怖と職務のあいだでひどく歪む。
「誰か、誰かいます……!」
しまった、と思った時には遅かった。
ハリーは反射的に駆け出そうとした。
だが周囲の空気が急に変わる。見えない結界のようなものが足首に絡みつき、次の瞬間には複数の妖精たちが一斉に集まってくる。小さな手。だが侮れない魔法。マントの裾が引かれ、身体の自由が乱される。
「っ、離せ!」
声を上げた、その瞬間だった。
冷たい光が飛ぶ。
ルシウスの杖から放たれた呪文は、あまりにも正確にハリーの喉を縛った。
叫びは途中で断ち切られ、空気だけが苦しく漏れる。次いで、腕、胴、脚。拘束の魔法が容赦なく身体へ巻きつく。見えない縄にぐるぐると縛り上げられ、ハリーは膝をついた。
透明マントが剥がされる。
ルシウスはその姿を見下ろした。
「……なるほど」
その声は妙に静かだった。
激昂ではない。もっと冷たい。状況を把握し、利用価値を測る人間の静けさだ。
「ポッター」
ハリーは睨み返した。
喉が締め上げられていて、声にならない。息を吸うたび、喉の奥がひどく狭い。
ルシウスはその必死さを眺め、口元に薄いものを浮かべた。
「自分が何をしに来たかは、もはや問うまでもないな」
一歩近づく。
「愚かだ。だが、使い道はある」
ハリーの胸が嫌な音を立てた。
「お前にも現実を見せてやろう」
ルシウスは淡々と言う。
「見れば諦めもつくだろう」
その言葉の意味を理解した瞬間、ハリーは全身でもがいた。
だが身体はきつく縛られている。
喉も閉ざされている。
足掻けば足掻くほど、拘束はさらに食い込むだけだった。
ルシウスは興味もなさそうに視線を落とす。
「連れて行け」
そして、まるで家具の配置でも指示するように付け加えた。
「透明マントを戻せ。見えない場所から、最後まで見届けさせろ」
ハリーの背筋が凍る。
ドラコに、自分が来たことを知られたくない。
いや、違う。
知られないまま、こんな形で儀式を見せつけられることがたまらなく恐ろしかった。
ドラコは何も知らない。
ハリーがここに来て、捕まって、今から目の前で何かを奪われるのを見せられることを。
屋敷しもべ妖精たちが震える手で透明マントを掛け直す。
今度は隠れるためではない。逃げられないように、黙って見せつけるための覆いだった。
ハリーは声もなくもがき続けた。
⸻
儀式の場は、中庭の中央に設えられていた。
白い花々。
銀の燭台。
磨き上げられた長椅子。
魔法で揺れる薄い光。
それらはすべて美しかった。だからこそ残酷だった。
透明マントの下で、ハリーは柱の陰へ固定されるように立たされていた。
足首の拘束が床に繋がれ、手首は背中の後ろできつく縛られたまま。喉を塞ぐ呪文はまだ解かれない。必死に声を出そうとしても、漏れるのはかすれた呼気だけだった。
目の前では、人々が席につき始めている。
上流の家々の客人。
穏やかな微笑み。
格式ばった会話。
誰も、この儀が誰かの人生を押し潰す場だとは思っていない。あるいは、知っていても気にしない。
その時、ドラコが現れた。
ハリーの心臓が止まりそうになった。
近くで見ると、やつれ方はさらにひどかった。
頬の線は鋭く、肌は青白い。礼服がぴたりと整っている分だけ、かえってその消耗が際立つ。唇の色も薄く、目の下の影は化粧で完全には隠しきれていない。
それでもドラコは、まっすぐ前を見て歩いた。
その歩き方がいちばんつらかった。
逃げたいはずなのに逃げない。折れそうなのに折れない。いや、すでにどこかは折れていて、それでも身体だけが役目を果たしている。そういう歩き方だった。
ハリーは喉を焼くように声を出そうとした。
出ない。
令嬢が反対側から現れる。
美しかった。
柔らかな色のドレス。整った顔立ち。きっとこの家にふさわしいと評されるのだろう品の良さ。だがハリーには、その美しさがひどく遠く思えた。
彼女は何も知らないのかもしれない。
目の前の青年がどれほど心を殺しているのか。あるいは知っていても、どうにもできないのかもしれない。
ドラコと彼女が並ぶ。
その瞬間、ハリーの胸の奥が本当に締めつけられた。
痛みというより、圧迫だった。呼吸の通り道を直接塞がれるような苦しさ。自分のいる場所が現実から切り離されていく感覚。
儀式が始まる。
司式の声は低く、整っていて、感情がない。
家同士の結びつき。名誉。未来。相応しい縁。
そんな言葉ばかりが並ぶ。
ハリーには、一つとして意味を持たなかった。
意味があるのはただ一つ。
ドラコが、そこに立っているということだけだ。
ドラコは何も言わない。
いや、言わされているのだろう。
必要な返答の時だけ、低い声が出る。その声はひどく平坦で、聞いているだけで胸が冷えた。
まるで、自分自身からも離れてしまったような声だった。
ハリーは必死にもがいた。
拘束が食い込む。
手首が痛い。肩も痛い。喉は焼ける。
それでもやめられない。やめたら本当に、目の前のものがそのまま決定してしまう気がした。
ルシウスは離れた場所からその様子を見ていた。
満足しているのが分かった。
式は滞りなく進んでいる。客人たちも満ち足りた表情だ。見えない場所で苦しんでいる侵入者のことなど、彼にとっては添え物に過ぎない。
ハリーはその顔を見て、激しい吐き気に襲われた。
そして、決定的な瞬間が来る。
儀式の最後。
確認の口づけ。
令嬢が顔を上げる。
ドラコも、ゆっくりと彼女のほうへ向き直る。
ハリーはその瞬間だけ、時間がひどく遅くなったように感じた。
やめろ。
やめてくれ。
そんなことするな。
ドラコ。
ドラコ。
名前を心の中で何度呼んでも、声にはならない。
ドラコの目は死んでいた。
本当に。
感情がないのではない。ありすぎる感情を、全部奥へ押し込めた果てに、表面だけが空になっている。
そしてそのまま、彼は令嬢に口づけた。
何の感情もない、儀礼としての、短いキスだった。
だがそれで十分だった。
ハリーは目の前が暗くなった。
胸の奥で何かが音を立てて裂ける。呻きにもならない声が喉の奥で暴れ、拘束に縛られた身体がさらに激しく揺れる。呼吸がうまくできない。胃が捻じれる。足元が消える。
見たくなかった。
見たくなかったのに、見せつけられた。
ドラコの意志ではないと分かっている。
分かっているのに、身体はそれを受け入れてくれない。目の前で、届かない場所で、自分の知らない未来へ一歩押し出されるドラコを見てしまった。その事実だけで十分だった。
儀式は終わる。
拍手が起こる。
控えめで、上品で、祝福に満ちた音。
それがハリーには拷問だった。
祝宴が始まる。
音楽。グラスの触れ合う音。歓談。
ルシウスは客人たちと満足げに挨拶を交わしている。何もかもが予定通りに進んだ。その事実が彼の表情を穏やかにしていた。
有頂天だった。
その満足感のせいか、あるいはもうハリーを脅威と見なさなくなったのか。
喉にかけられていた呪文が、ほんの少しだけ緩んだ。
最初は気のせいかと思った。
だが違う。息の通り道に、わずかな隙間ができている。
ハリーは全身の力を喉へ集めた。
声は出ない。
まだほとんど出ない。
だが、ほんの少しだけ、かすれた空気が音になりかける。
「……っ」
もう一度。
喉が裂けそうになる。
それでも止めない。
そして、ようやく。
「……ド、ラコ」
ほとんど風の音に埋もれるような、壊れた声だった。
だが、それでも確かに音だった。
祝宴の最中、ドラコはずっと心を殺していた。
笑う時は口元だけ。
頷く時も最小限。
令嬢の家族へ礼を述べ、ルシウスの隣へ立ち、杯を受け取る。全部、身体の癖だけでこなしていた。そうでなければ立っていられなかった。
感情を持ち込んだら終わる。
終わらないために、何も感じないふりをしていた。
だから最初、その声が聞こえた時、幻聴だと思った。
ドラコ。
あまりにも弱く、遠い声。
でも、耳がその響きを知っていた。
ハリーの声だった。
ドラコの指先がぴくりと震える。
グラスの中の液面がわずかに揺れる。
気のせいだ。
そう思う。
こういう場面で、いちばん聞きたくて、いちばん聞こえるはずのない声を、頭が勝手に作り出しただけだと。
だが、次の瞬間、また聞こえた。
「……ドラコ」
今度はもっとはっきり。
ドラコの心臓が一気に強く打った。
顔を上げる。
視線が会場を走る。白い花、揺れる燭台、笑っている客人たち、ルシウスの横顔、令嬢の静かな微笑み。どこにもハリーはいない。
いるはずがない。
なのに、声は確かに聞こえた。
ドラコの呼吸が乱れる。
死んだはずの心が、その一瞬だけ生き返る。
恐怖と希望が同時に喉へせり上がる。
声の出所を探す。
もう一度。
「……ドラ、コ……!」
今度は必死だった。
壊れかけた、苦しい声。叫んでいるのに叫びきれない声。
ドラコはほとんど反射的に歩き出した。
「ドラコ?」
令嬢の戸惑った声がした。
ルシウスが眉をひそめる。
だがそんなものはもう耳に入らない。
声は柱の陰からだった。
ドラコはそこへ辿りつき、何もない空間を見た。
だが、その“何もない”場所に、不自然な空気の歪みがある。
透明マント。
胸が止まりそうになる。
「……ハリー?」
囁くような声だった。
返事の代わりに、そこからかすれた息が漏れる。
必死にもがいていた気配だけが生々しく残っている。
ドラコは一瞬だけ、世界の輪郭を失った。
本当に来たのか。
ここに。
こんな場所まで。
この最悪の瞬間に。
次の瞬間にはもう、杖が手の中にあった。
「フィニート」
震える声で呪文を放つ。
透明マントの下に隠されていた輪郭が、ゆっくり現れる。
ぐるぐるに縛られ、喉のあたりにはまだ呪文の痕が残り、息も乱れたハリーが、そこにいた。
ドラコの顔から血の気が引く。
ハリーは青ざめたまま、まっすぐドラコを見ていた。
その目には、今見てはいけなかったものを見せつけられた人間の痛みが、あまりにも露わに浮かんでいた。
その視線を受けた瞬間、ドラコの中で凍っていた何かが、音もなくひび割れた。