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振り下ろされる純白の刃の軌道には、一片の淀みも、一握の躊躇いも存在しなかった。
「さらばだ――哀しき凍星よ」
ジークの冷ややかな宣告が、凍てついた大気に白く溶けていく。それは剣聖としての傲慢な誇示でも、魔女への憎悪でもなく、ただ一つの悲劇を幕引きするための、あまりにも完成された慈悲に似た処刑の一撃だった。
ソラスには、もはや指先ひとつ、瞬きひとつ動かす力すら残されていなかった。
宙を舞い狂っていた無数の氷剣は、主の追尾の意思を失って粉々に砕け散り、氷や泥の人形たちは形を保てずに汚泥へと還っていく。限界を遥かに超過した魔力の奔流だけが、行き場を失って彼女のひび割れた器の内で暴れ狂い、内側から命の灯火を激しく焼き焦がしていた。
――ここまでか。
そう悟り、抗うことをやめて静かに目を閉じた刹那。鼓膜を劈くような、甲高く、そしてひどく重たい金属音が戦場に爆ぜた。
剣が、止まった。
否。止められたのだ。
白耀の刃先が、ソラスの白く細い喉元を裂くほんの数ミリ手前。死の冷たい風圧が彼女の柔らかな肌を撫でたその位置で、決して防げないはずのジークの必殺の一撃が、完全に縫い留められていた。
横合いから凄まじい踏み込みと共に差し込まれた、もう一本の無骨な鋼。
ジークの刃を弾き返したその圧倒的な衝撃で、眩い火花が散り、周囲の凍てついた大気がびりびりと悲鳴を上げて震える。その鍔迫り合いの中心に、鳶色の瞳をした黒衣の男が、ソラスを背に庇うようにして立っていた。
「そこまでだ、ジーク」
地の底から響くような、低く、しかし絶対にこの線を譲らないという鋼の意志を孕んだ声。魔力など一切持たないただの分厚い鋼の剣が、彼の手の中でギラリと鈍い光を反射している。
「……フラスニイル」
ジークの、氷のように凪ぎ払われていた顔に、初めて微かな感情の波が走った。その名を口にした声音は、驚愕でもなく、敵意でもない。ただの事実確認――あるいは、遠い昔に死に別れた懐かしい幻影を見たかのような、不思議な響きだった。ギリ、と刃と刃が重なり合い、火花を散らす中で、ジークは目を細める。
「……生きていたか」
「しぶとさには、自信がある」
フラスニイルは視線を一切逸らさず、腕の筋肉を限界まで軋ませながら低く応じた。
「知っている」
即答だった。互いに剣にかかる力を僅かに抜きながらも、刃は決して離さない。一瞬の瞬きが命取りになる、濃密な死の間合い。しかしそこには、歴戦の死地を共に背中を預け合って生き抜いた者同士にしか分からない、奇妙な信頼と呼吸が確かに存在していた。ソラスは、明滅する視界の端に、その見慣れた黒い背中を捉える。
「……フ、ラス……?」
枯れ果て、血と鉄の味しかしない喉の奥から、掠れた声が漏れた。
「動くな」
フラスニイルは、決して背後を振り返らずに言い放った。
「今は、呼吸だけしていろ」
その不器用で乱暴な言葉がどれほど彼女の絶望に寄り添い、砕け散りそうだった心を繋ぎ止めたか、彼は知らない。その安堵が戦場に浸透するより早く、空気を薄く切り裂くような鋭い音がもう一度鳴った。
別方向。
少し離れた場所で事態の推移を窺っていたアルベルトとラヴィニアの視界に、赤毛を短く束ねた女が、まるで影の中から湧き出たかのように音もなく滑り込んでいる。
ユスティナだった。
剣は既に鞘走っている。そして構えは極端に低い。獲物の喉笛を狙う獣のように地を這う体勢だが、静止した切っ先には一切のブレもなく、二人の精鋭騎士の喉元を正確な延長線上に捉えていた。
「動くな」
囁くような声。だが、そこには一切の余裕も、命乞いを許す慈悲もない。ラヴィニアは反射的に剣を抜こうと身を強張らせた。だが、足が、指先が、わずかに遅れた。
――速い。
構えに入る“前”から、すでに完璧な死の間合いを支配されている。一歩でも動けば、息を吸い込めば、その瞬間に急所を貫かれるという圧倒的な死の予感が、ラヴィニアの背筋を凍らせた。
「……ユスティナ、だったか」
アルベルトが、警戒の底で名を確認するように言う。歴戦の第一騎士隊長ですら、軽挙妄動を許されないほどの重たく濃密な殺気。
ユスティナは、鋭利なガラスのような視線だけで小さく頷いた。
「貴方がアルベルト……噂通り、お堅そう」
それは、決して親愛のこもった軽口ではない。首を刎ねる前の処刑人の宣告に近かった。
「一歩でも前に出たら、斬る」
冷え切った、冗談めかした調子が一切ない断言。ラヴィニアは、乾いた喉を鳴らした。自分たちは二人。相手は一人。しかし、数の優位などこの女の前では何の意味も持たない。
「……二人を同時に、相手にする気?」
「ああ」
迷いすら、考える素振りすら見せない返答。
「必要なら」
その暗く淀んだ、底知れぬ瞳を見た瞬間、ラヴィニアは直感的に理解し、戦慄した。――この女は、勝てるかどうかでは動いていない。ただ、背後の少女を守るために、彼らを此処に釘付けにする。その一点のみに己の命を惜しげもなく天秤に載せ、相打ちすら辞さない。純粋で狂気じみた肉の壁が、そこに立ち塞がっていた。
ジークの氷のように冷たい視線が、鍔迫り合いの最中、フラスニイルの肩越しへと滑る。魔力の枯渇により限界を迎え、地に膝をつくソラスの姿を一瞥し、すぐに目の前の旧友へと戻る。
「……お前なら、容易く斬れただろうに」
軋む鋼の隙間に、静かな声が落ちた。
「たとえ相手が、どれほど絶望的な力を持つ魔女であろうともな」
そこにあるのは安い挑発や皮肉ではない。かつて背中を預け合い、幾度も死線を潜り抜けた者にしか向けられない、絶対的な実力への信頼と評価だった。対するフラスニイルは答えない。ただ奥歯を噛み締め、剣に込める重さで返答の代わりとする。その沈黙に、ジークの口元が僅かだがひどく歪な形に緩んだ。
「どうした」
ほんのかすかな、吐息の混じった冷笑。
「その魔女に、魂でも魅入られたか?」
低い笑いが喉の奥で転がるが、その瞳孔の奥は微塵も笑っていない。絶対零度の殺意が、ただ静かに渦巻いていた。
次の瞬間、張り詰めていた鋼の均衡が弾けた。ジークが刃を滑らせてフラスニイルの力をいなし、火花を散らしながら一瞬で間合いを切り離す。反射的にフラスニイルも地を蹴り、後方へ跳躍して体勢を立て直した。ざあッ、と乾いた土埃が舞い上がる。
二人の間に、張り詰めた糸のような数歩の距離が生まれた。互いに剣を正眼に構えたまま、彫像のように動かない。焼け焦げ、破壊された村の虚無の空間を、秋の乾いた風の音だけが通り抜けていく。
「任務だ」
ジークが、冷徹に宣告した。
「あの魔女は、我々がここで終わらせる」
白耀の切っ先が、わずかにフラスニイルの背後――ソラスの細い命脈を指し示す。
「国を敵に回し、私を止めるだけの”理由”が、今のお前にあるのか」
それは問いではない。互いの存在意義を天秤にかける、残酷なまでの確認作業だった。フラスニイルは、ふと、構えていた剣の切っ先をわずかに下げる。両足は大地に根を張ったように微動だにせず、背後の少女へは決して一歩も退かせないという強固な意志の表れだった。
「ある」
血を吐くような、しかし岩のように揺るぎない、短い言葉。ジークの眉がぴくりと跳ねる。
「聞こう」
「――まだ、終わっていない」
主語はない。”何が”と言わなくとも、かつて刃を交えたジークには、その言葉の奥にある途方もない覚悟の重さが伝わった。ほんの一呼吸分だけ、世界に完全な沈黙が落ちる。そして、ジークは諦観を含んだように小さく息を吐いた。
「そうか」
下げていた重心をさらに落とし、白耀の剣を、静かに、そして最も鋭利な角度へ構え直す。
「ならば」
次の瞬間、爆発的な踏み込みで地が抉れた。
「まずはお前を叩っ斬る」
殺意の暴風が吹き荒れるその背後で、ソラスは、震える手で大地を掴みながら必死に過呼吸を抑え込んでいた。限界を迎えた肉体は、まだ立てない。魔力は枯渇し、まだ戦えない。
けれど――その瞳には、絶望とは違う光が宿っていた。私の前に立ってくれる人がいる。一人では、ない。その事実だけが、冷え切った彼女の胸の奥で、小さな、確かな熱となって灯っていた。
一方、少し離れた場所でその光景を見据えるアルベルトは、己の剣を下ろすことも、再び掲げることもできずに立ち尽くしていた。
――無理だ。
ここから先の領域は、国家の”命令”や騎士としての”義務”などという薄っぺらい理由だけで踏み込める場所ではない。命と魂を擦り減らして刃を交える、怪物たちだけの死地。
戦場は、互いの純粋な殺気が衝突し合う、息苦しいほどの沈黙に包まれる。次に動く者が、この世界のすべてを決める――そんなヒリヒリとした予感だけが、血と土の匂いと共に濃く、重く、その場に留まっていた。
最初に場を支配した静寂を破ったのは、言葉ではなかった。乾いた土を踏み砕く、暴力的なまでの足音である。ジークが、音もなく沈み込んだかと思うと、次の瞬間には爆発的な推進力で地を蹴り出していた。その踏み込みは大地が悲鳴を上げるほどに重く、しかし眼球の動きが置き去りにされるほど速い。石を砕く鈍い音が、彼の姿がブレた一拍後に鼓膜へ届く。
対するフラスニイルは、自ら迎え撃つような真似はしなかった。迫り来る死の暴風を前にして、僅かに半歩だけ重心を後ろへ引き、無骨な鋼の刃を静かに立てる。
直後、大気が爆ぜた。凄まじい衝突。魔力を持たない純粋な鋼と、白耀の退魔剣が真っ向から噛み合い、夕闇の迫る戦場に目眩くような火花を散らす。それは単なる力任せの激突ではない。両者とも、筋繊維の一本にまで張り巡らせた極限の集中力で、互いの命を刈り取るための最短の角度、最短の距離を正確に削り出しているのだ。
鍔迫り合いから一瞬の流転、ジークの剣が上段から滑らかに縦へと落ちる。
フラスニイルの左肩から右腰へと抜け、確実に両断せんとする冷徹な軌道。
だがフラスニイルは、それを刃の最も分厚い根元で柔らかく受け止め、力を逃がすようにして刃筋を滑らせた。
ギィィン、と腹の底を揺らすような低い金属音が鳴り響く。殺意を受け流したその反動を乗せ、フラスニイルの返す刃がジークの無防備な喉元へと下から跳ね上がった。ジークは上体を僅かに捻り、鋼の切っ先を文字通り紙一重で躱してのける。
――速い。
傍観を余儀なくされているアルベルトは、思わず息を呑んだ。一つ一つの太刀筋は見える。洗練され尽くした技の応酬であることも理解できる。だが、次に繰り出される手への予測と思考が、彼らの絶技の速度に全く追いつかないのだ。
瞬きをする間に、二つの剣は再び火花を散らして交わっていた。息もつかせぬ横薙ぎ、心臓を穿つ鋭い突き、下段から跳ね上がる逆袈裟。放たれる全ての斬撃が、一切の躊躇なく相手の致命を狙い澄ましている。そこに、己の身を守るための「防御」という概念はない。攻撃こそが最大の防御であり、一撃でも見切ればそのまま相手の命を奪うという、極限の死合いである。
ラヴィニアの細い喉が、引きつったように小さく鳴った。――魔力も特殊な術式も介在しない、ただ己の肉体と鍛え上げた剣技のみで戦う人間の、これがひとつの到達点。
拮抗が崩れたのは、ジークがさらに半歩、深く踏み込んだ瞬間だった。恵まれた体格から生まれる圧倒的な膂力を精緻な技術で圧縮し、フラスニイルの剣先を重圧で押し潰す。フラスニイルの無骨な刃が、たまらず僅かに外側へと弾かれた。その一瞬の死角を縫うように、ジークの白刃がフラスニイルの肩口を無慈悲に掠める。皮肉と筋肉を薄く裂き、鮮血が赤い弧を描いて宙に散った。
「……」
だが、肉を斬られたフラスニイルは、苦悶の声を漏らすどころか顔色一つ変えなかった。後退して体勢を立て直すのではなく、血を流したままその場に踏み止まり、自らの命を差し出すかのような捨て身の刺突をジークの胸元へと真っ直ぐに放つ。
ジークは避けることなく、それを真正面から剣の腹で受け止めた。ガァンッ、と鋼が悲鳴を上げて鳴る。再びの鍔迫り合い。互いの剣を押し合う二人の額は、今や呼吸すら混ざり合うほど、ほとんど触れそうな距離にあった。
「……腕は、落ちていないな」
拮抗する力の中、ジークが地の底から響くような声で低く言った。
「そっちもな」
フラスニイルが、汗の滲む顔で短く、しかし確かな熱を帯びて返す。次の瞬間、弾かれたように二人は同時に跳躍した。交差していた刃が離れ、縮まっていた距離が一瞬にして大きく開く。
――今だ。
フラスニイルは、警戒を解かぬまま視線だけで自身のすぐ背後を確認する。乾いた地面に膝をついたソラスの呼吸は、もはや正常な音を成していなかった。ひゅぅ、ひゅぅ、と喉の奥で細い空気が擦れる痛ましい音。酷使しすぎた魔力回路が内側から崩壊し始め、彼女の口内には濃厚な血の味が広がり続けている。
再び剣を上段に構え、無慈悲に距離を詰めようとするジークの前に、フラスニイルが壁となって立ちはだかる。再び刃が重なり、激しい火花が散ったその刹那。
「――ユスティナ!」
血を吐くようなフラスニイルの咆哮が、戦場を裂いた。その名を呼び終えるより疾く、影に潜んでいたユスティナが風のような速度で駆け抜け、倒れかけた少女の華奢な肩を力強く掴み起こした。糸の切れた操り人形のように、ソラスの細い身体がぐらりと彼女の方へ傾く。
「歩けるか?」
問いに対する答えはない。ソラスは焦点の定まらない瞳のまま、ただ激しく、血の混じった咳を吐き出す。――そして、その痛ましい咳き込みの拍子に、戦場を縛り付けていた”何か”が、音を立ててほどけた。
ひとつ、またひとつ。先ほどの猛攻で砕かれ、倒れ伏し、完全に動きを止めていたはずの氷と木の自律人形たちが、一斉に不気味な軋み声を上げ始めたのだ。
地面に深々と突き立てられたままの氷剣が、主の意志に呼応するようにびりびりと震え出す。折れた腕を引きずる木の兵が再び立ち上がり、土に沈みかけていた人形が、どろりとした泥を払い落としながら亡者のように這い出してくる。
ソラス自身は、もうそれを見てはいなかった。瞳はすでに虚ろに濁り、意識は深い闇の内側へと落ちてしまっている。それでも、彼女の魂の底に焼き付いた切実な命令だけが、魔力の残滓に乗って世界に木霊していた。
――行かせて。
再稼働した自律人形たちに、先ほどのような完璧な統率も、無尽蔵の再生能力もない。ただ崩れゆく身体を引きずりながら、主を逃がすという本能だけで動いている。だが、その数はあまりに多く、動きは荒々しく予測不能であり、それでも確実に白耀剣の騎士たちへと鈍い刃を振るってくる。
「……っ」
追撃を試みようとしたアルベルトは、その異様な光景に思わず足を止めた。
剣を構えた白耀剣の騎士たちも、容易には前へ進めない。半壊した氷の兵が執拗に前線を塞ぎ、木の人形が不気味な足取りで側面に回り込んでくる。一太刀で破壊すれば霧散するほどに脆いが、そのたびに別の個体が盾となるべく前に躍り出るのだ。
これでは、ソラスたちを追撃できない。その忌々しい判断が、アルベルトを含む全員の胸に同時に落ちた、その時である。
「アルベルト隊長殿ッ!」
「ここは我々が引き受けます」
ジークと共に現れた団長直属の騎士たちが、統率の取れた動きで一歩、前へと進み出た。彼らは白刃を構え、その冷徹な視線はすでに蠢く人形たちを明確な標的として捉えきっている。
「対象は自律兵器群。これより殲滅に移行します」
その頼もしい申し出に、アルベルトは小さく息を呑んだ。彼らに対する騎士としての感謝、少女を追い詰めることへの拭いきれぬ迷い、そして隊長としての重い責任が、胸の奥で複雑に絡み合う。
「……恩に着る」
苦渋を飲み込みそれだけを告げると、彼はもう振り返らなかった。白耀の剣を高く掲げ、腹の底から声を張り上げる。
「白耀剣、全隊」
秋の乾いた空気を鋭く切り裂くように、絶対の命令が戦場に落ちる。
「追撃準備。――目標、ソラス」
その冷酷な言葉が放たれた瞬間には、鬱蒼とした森の方角へとユスティナに支えられながら消えゆく銀髪の少女の姿は、すでに深い木々の闇に呑まれ、完全に見えなくなっていたのである。