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凪は千紘との約束通り、最後の客と別れるとすぐに電話をかけた。作り笑顔をし過ぎたせいか、頬の筋肉が痛かった。
今日はこれでもうなにもしなくていい。そう思ったら、急に気持ちが楽になった。
「もしもし、お疲れ様」
穏やかで低い声が響いた。凪は道路沿いを歩きながら「仕事終わった」とだけ言った。
「うん。俺も帰ってきてシャワー浴びたとこ。もう来る?」
「今向かってる」
「わかった。凪、ご飯は?」
「食ってない。適当にコンビニかなんかで」
「ああ、いいよ。うちで用意するからそのままおいで」
「……そう。わかった」
凪は素直にそう言った。本当はコンビニに寄るのも面倒だと思っていたところだ。食べれればなんでもいいし、むしろ食べなくてもいいと思った。
あまり食欲もなくて、客から延長して食事に行くかと聞かれたが、今回は断った。さすがに今日は延長するのは気が引けた。
もう少しで仕事が終わるのに自ら伸ばすなんて、自分の首を絞めるだけだと思ったのだ。
こうなったのも貯金額を確認してしまったからのような気がした。もうこれ以上、貯金も必要ない。そう思ってから仕事へのやる気が一気になくなったような気がした。
気怠い体で千紘のマンションへと向かった。待ち合わせではなく、直接千紘のマンションを訪ねるのは不思議な感覚だった。
住所がラインで送られてきて、マップアプリを頼りに前に進んだ。
無事に辿り着くと、千紘がエントランスまで降りてきて一緒に部屋まで向かった。凪はアフターDMの文章を打ち込みながら千紘の後をついて行く。
凪がスマホ画面ばかり見ていても、千紘は何も言わなかった。凪は無意識だったが、それがとても自然体で気持ちが楽だった。
気を使わなくていい相手と一緒に過ごすのはとてつもなく久々な気がした。
なぜか2日前とは思えず、千紘と会ったのはずっと昔のことのようだった。
部屋に入った途端、食欲をそそる匂いがした。前回初めて訪れた時には、ディフューザーの爽やかな香りが出迎えてくれたが今回は違った。
リビングへ行けばテーブルにはちゃんとした料理が並んでいた。男の一人暮らしだし、前回はピザだったしで何の期待もしていなかったのに、まるで彼女の家にでも来たかのようだった。
「こんなにちゃんとした飯あると思わなかった」
「食べてないって言ったから。急いで作った」
「は? お前が作ったの?」
凪は驚いて目を丸くさせた。惣菜を皿に盛り付けただけでも大したものだと思ったのに、千紘の手料理だと聞いて驚かないはずがなかった。
煮込み料理もあって、こんな短時間でどうやって作ったんだと目を見張る。
「前に言ったじゃん。料理は俺がするって」
「……言ってた気もする」
「酷いなぁ。俺はちゃんと覚えてて、せっかく作ったのに」
千紘は口を尖らせるが、直ぐに笑顔で凪に椅子へ座るよう促した。凪はまじまじと並べられた料理を見ながら、腹が音を立てるのを感じた。
食べなくてもいいとすら思っていたのに、久しぶりの手料理に喉を鳴らした。客の手料理なんて何が入っているか怖くて食べられたものではないが、千紘の料理にはあまり抵抗を感じなかった。
千紘なら、何かを混入せずとも凪を好き勝手できることは証明されているのだ。今更薬を盛ったりなんかもしないだろうと思えた。
「料理できんのかよ……」
「できないとは言ってない。あんまり作らないとは言ったけど」
「なんか……何もかも意外でビビんだけど」
凪は眉をひそめて千紘を見つめた。自宅がモデルハウスのように綺麗なことも、料理が得意なことも最初の千紘のイメージとは違う。
しかし、そのイメージだって凪が勝手に想像しただけに過ぎない。
「そう? 凪のためなら料理なんていくらでも作るけどね」
そう言った千紘はなぜか満足そうだった。
「料理嫌いなんじゃないの?」
凪は目の前に置かれた箸に手を伸ばしながら言った。
「嫌いじゃないよ。時間がないだけ。でも凪が食べてくれるなら毎日作ってもいいかな」
「毎日ってなんだよ。食っていいの?」
そう聞きながらも凪は箸を手に取り構えていた。千紘は、食べる気でいてくれる凪に感激しながら「どうぞ」と言って微笑んだ。
凪がまず箸を伸ばしたのはナスの揚げ浸しだった。和食が並んでるのは素直に嬉しかった。
「うま……」
柔らかくて味が染み込んでいて、素直に飛び出た感想だった。凪はそれを噛み締めて目を丸くさせた。
「ほんと? よかった。凪の好きなもの知っておかないと」
「前に教えた」
「それ、嫌いなものでしょ?」
「そうだっけ? まあ、いいや。ここに並んでるのはどれも好き、多分」
凪が次々と他の料理にも手をつける。一緒に外食した時と同じくらいのペースで食べてくれるものだから、千紘は心の底から嬉しさでいっぱいになった。
レシピは頭の中にあっても、他人に料理を作るなんて久々過ぎて少し緊張もしたのだ。
凪がご飯を食べていないと言ったら、最初から何かしら作るつもりだった。凪の返事も聞かない内から、何を作ろうかとある程度候補を決めておいた。
それでも実際に作ってみると、好きな人に手料理を振る舞う嬉しさと、美味しいと言ってくれるかの不安と、喜んでくれるかもしれないという期待が混合した。
もしかしたら、手料理なんて気持ち悪がって食べてくれないかもしれない。そんなマイナスなことももちろん考えた。そんな時用にレトルト食品や乾麺も用意していた。
けれどそれらが活躍する場面はなさそうで、千紘は自然と口角が上がるのを感じた。
「お前は食わないの?」
じっと凪が食べているところを見たままの千紘に向かって凪は首を傾げた。自分ばかりが腹を空かせているように見えたのだ。
「食べるよ。凪が美味しそうに食べてくれて嬉しいなって感激してたところ」
「あっそ。普通に美味いわ」
もはや悪態すらつかない凪に千紘も拍子抜けしてしまう。牙が折れてしまったのではないかと思えるほど、柔らかい対応の凪に千紘は少なからず戸惑った。