テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
地下室を出たあとも、ドラコに自由は戻らなかった。
むしろ、形を変えただけで、拘束は前より丁寧になった。
暖かい部屋。清潔なシーツ。薬の匂い。窓には重いカーテン。食事は決まった時間に運ばれ、熱も喉の痛みも少しずつ引いていく。体調だけ見れば、地下室とは比べものにならない。
だがそれだけだった。
扉の外には常に気配がある。
人間ではない。屋敷しもべ妖精たちの気配だ。けれどその小さな監視の網は、逆らう余地がないぶんだけ厄介だった。
紙を求めても、持ってこない。
羽根ペンも、インクもない。
窓を開けようとすると鍵がかかっている。
梟は近づかない。
しもべ妖精へ何か伝えようとしても、彼らは涙目で首を振るだけだった。怯えきっていて、命令違反にあたることは何一つできない。
「お願いします、坊ちゃま……お許しください……」
そう言って震えるばかりで、ハリーの名すら口にさせてもらえない。
ドラコは最初の二日は、まだ怒りで立っていられた。
扉を叩いた。
父に会わせろと叫んだ。
母を呼べと怒鳴った。
ここから出せ、ふざけるな、勝手に決めるなと、喉が痛むまで声を張り上げた。
だが、三日目にはそれも無駄だと分かった。
返事は来ない。
あるいは来ても、「旦那様はお会いになりません」「奥様も今は」と、曖昧な言葉でかわされるだけだ。
誰も正面から拒絶しない。
その代わり、誰も扉を開けない。
それが余計に残酷だった。
露骨に縛られているなら、まだ反発できた。
だが今のドラコは、病み上がりの身体を気遣われながら、丁重に隔離されている。表面だけ見れば保護ですらある。その体裁の綺麗さが、かえって喉を詰まらせた。
自分の望まぬ人生が、静かに、礼儀正しく進められている。
その感覚がたまらなく気持ち悪かった。
そして、最悪なのは、時間が進んでいるということだ。
ある日の夕方、ナルシッサが部屋へ来た。
ドラコはその顔を見た瞬間、何か言いに来たのだと分かった。彼女はやつれたままだった。ここ数日で少し持ち直したようにも見えたが、それは疲労に慣れただけだ。
「お母様」
呼びかけると、ナルシッサは寝台のそばで止まり、しばらく息子を見つめていた。
その目にあるのは愛情だ。間違いなく。だが、それだけではない。諦めきれない人間の、苦しい決意が混ざっていた。
「日取りが決まったわ」
その一言で、部屋の温度がすっと下がった。
ドラコはしばらく、言葉の意味を理解できなかった。
理解したくなかったのかもしれない。
「……何の」
ナルシッサの睫毛が揺れる。
「婚姻の儀よ」
それだけで十分だった。
ドラコは寝台の上で指を強く握った。
指先から血の気が引く。喉の奥が乾く。
決まった。
日取りが。
つまり、話し合いの段階はもう終わったのだ。父の中では。家の中では。自分の意志が入る余地など最初からなく、事務的に、確実に、未来が固められていく。
「いつ」
声が低くなる。
ナルシッサは答えた。
その具体的な日付は、ドラコにとって刃だった。
遠くない。
あまりにも遠くない。
刻一刻とその日が近づいている。
今この瞬間も、ただ部屋の中に閉じ込められて呼吸しているだけで、その日は勝手に近づいてくる。
ドラコは何も言えなくなった。
ナルシッサは一歩近づく。
「ドラコ」
声は静かだった。
「今なら、まだあなたの体調を理由に少しだけ遅らせることはできるかもしれない」
苦しげに続ける。
「でも、覆すのは難しいわ」
難しい。
覆せない、ではない。
けれどその言い換えに、かえって望みの薄さが滲む。
「お母様は」
ドラコはようやく顔を上げた。
「これでいいと思ってるんですか」
ナルシッサはすぐには答えなかった。
「いい、とは思っていない」
その正直さだけが、余計につらかった。
「でも」
彼女は目を伏せる。
「これ以上あなたが壊れるところを見たくないの」
ドラコは思わず笑いそうになって、できなかった。
壊れる。
もう十分に壊されているのに、その先を防ぐためにさらに自分の人生を差し出せと言われる。その理屈があまりにも綺麗に整っていて、どこから崩せばいいのか分からない。
「僕は」
ドラコは低く言う。
「それで、もう安心できるようになるんですか」
ナルシッサの顔が、かすかに揺れた。
「お母様が言う“丸く収まる”って、誰にとってですか」
息が荒くなる。
「父上にとって? 家にとって?」
そこで唇を噛む。
「僕は?」
ナルシッサは答えられなかった。
その沈黙だけで、ドラコには十分だった。
一人になると、怖さが増した。
昼でも夜でも同じだった。
婚姻の儀の日取りが決まった、という事実が、部屋の壁そのものに沁み込んでいる気がした。何を見ても、それがそこへ繋がる。カーテンの重さ、茶器の置かれる音、遠くの時計の音。すべてが、自分の意志とは無関係に進んでいく時間の証明になる。
ドラコは窓辺に立ち、何度も外を見ようとした。
だが分厚い布の隙間から見えるのは、庭のごく一部だけだ。冬の終わりの木々。灰色の空。遠くの門は見えない。
ハリーのことを考える。
今ごろ何をしているだろう。
まだ何も知らないのだろうか。
自分がここへ閉じ込められ、婚姻の日取りまで決められていることを、想像もしていないのだろうか。
そう思うと、胸の内側がひどく痛んだ。
知らせたい。
一言でいい。
助けてほしい、と言えなくても、せめてここにいるとだけでも。
でも何一つ届かない。
ハリーへ繋がる道が、すべて父の手で切り落とされている。
それが現実になると、ドラコは初めて、自分がどれほどハリーという存在を心の拠り所にしていたかを思い知らされた。依存だと言われた言葉が頭をよぎる。悔しいのに、否定しきれない。会えないというだけで、呼吸の仕方まで忘れそうになるのだから。
「……くそ」
吐き捨てた声は、誰にも届かない。
一方その頃、ハリーはまったく別の種類の袋小路にいた。
スネイプから聞かされた事実――地下室、二週間、高熱――だけで、頭の中は十分に壊れそうだった。だが、それでドラコの居場所が分かったわけではない。会う方法も、助け出す方法も、何一つ見つからないままだった。
ハーマイオニーは地図を広げ、マルフォイ家の屋敷について覚えている限りのことを書き出した。
ロンは何度も「俺たちで乗り込めば」と言いかけて、そのたびにハーマイオニーに睨まれた。
「無理よ」
彼女は冷静に言う。
「正面から侵入するなんて、自殺行為だわ」
羽根ペンで紙を叩く。
「屋敷しもべ妖精でも近づけない結界があるのに、人間がどうやって入るの」
ハリーは椅子の端に座り、拳を組んだまま黙っていた。
無理だ。
できない。
危険すぎる。
それは頭では分かる。
でも、分かることと受け入れられることは別だ。
ドラコは二週間も地下室にいた。
高熱を出していた。
それを思うたび、じっと座って策を練るという行為自体が耐え難くなった。
「だったらどうすればいいんだよ」
ハリーの声は、気づかないうちに荒くなっていた。
「警備が厳重で、先生たちも動かなくて、スネイプだってこれ以上は何も言わない」
立ち上がる。
「僕たちはただ待てって?」
視線が揺れる。
「そんなの無理だ」
ロンが「ハリー」と言う。
だがその声に落ち着きはない。ロン自身も焦っているのだ。机の端を何度も指で叩いている。
ハーマイオニーは目を閉じ、短く息を吐いた。
「待てとは言ってない」
静かに答える。
「でも、行き当たりばったりで突っ込んだら、本当に手遅れになる」
そこでハリーを見る。
「あなたは今、焦りで判断を壊しかけてる」
壊しかけてる。
その通りだった。
ドラコを失うかもしれない。
その可能性が、一度頭の中へ入るともう消えない。寝ても覚めてもついて回る。何をしていても、最悪の光景が勝手に想像される。
地下室。
閉じた扉。
熱に浮かされた顔。
そして今度は、会えないまま誰かと婚約させられるかもしれないという漠然とした不安まで、まだ形を持たぬまま胸の底に沈んでいた。
その時、ドビーが現れた。
勢いよく。
息を切らして。
「ハリー・ポッター様!」
部屋の空気が一変する。
ハリーは即座に振り向いた。
「ドビー?」
ドビーは肩で息をしながら、それでも必死に言葉を繋ぐ。
「やっと、やっとお話できたです」
大きな目が真っ直ぐハリーを見る。
「マルフォイ家のしもべ妖精を、外で捕まえたです。買い物に出てきたところを」
ハリーの心臓が嫌な音を立てた。
「ドラコは?」
すぐに聞く。
「無事なのか?」
ドビーの耳が伏せられる。
その小さな動きだけで、ハリーの胸は冷えた。
「ドラコ坊ちゃまは」
ドビーは慎重に言葉を選んだ。
「お部屋へ移されたです。地下室からは出たです」
そこで一瞬だけ口ごもる。
「でも、それだけじゃないです」
ハーマイオニーが息を止める。
ロンも顔を上げた。
ドビーはついに言った。
「婚姻です」
その一語が、部屋の空気を完全に変えた。
ハリーは最初、意味を理解できなかった。
「……何」
「ドラコ坊ちゃまの婚姻が決まったです」
ドビーの声が震える。
「名家のお嬢様と。日取りも、決まったです」
その瞬間、ハリーの視界から色が抜けた。
足元がなくなる。
本当に、目の前が暗くなるということがあるのだと、その時初めて知った。
婚姻。
頭の中でその言葉だけが何度も反響する。
婚姻。
決まった。
日取りも。
ドラコは地下室から出された。
助かった。
少なくとも命の危険は一段遠のいた。
さっきまでそう思いかけていた感情が、一瞬で別の恐怖へ塗りつぶされる。
永遠に失うかもしれない。
その言葉が、今度は何の比喩でもなく、骨の内側まで冷やした。
ハリーは一歩後ろへよろめき、椅子の背に手をついた。
呼吸がうまくできない。肺が狭い。胸の真ん中へ冷たい塊を押し込まれたようだった。
「ハリー!」
ロンの声がする。
遠い。
ハーマイオニーが立ち上がる音も、ドビーの慌てた声も聞こえるのに、全部ひどく遠い。
婚姻。
ドラコの望まない相手。
父に決められた道。
刻一刻とその日が近づく。
会えない。
知らせも届かない。
助けにも行けない。
そのあいだに、決まっていく。
「……嘘だ」
掠れた声が漏れた。
自分で言ったのかどうかも分からないほど小さかった。
ドビーは泣きそうな顔で首を振る。
「嘘じゃないです」
それが最後の一撃だった。
ハリーは両手で顔を覆った。
そうしないと、何かが崩れそうだった。叫ぶのか、泣くのか、自分でも分からない。とにかく今、胸の中へ流れ込んできた恐怖の量が多すぎて、まともに立っていられない。
ドラコが遠ざかる。
手の届かないところへ。
父親の決めた「正しい道」へ押し込まれて、そのまま戻れなくなる。
その想像が、あまりにも生々しくて、ハリーは息をするたび喉を痛めた。
「……嫌だ」
ようやく出た声は、子どもの泣き声に近かった。
「ハリー」
ハーマイオニーが近づく。
でも今のハリーには、そのやさしさすら少し遠い。
嫌だ。
その一言しか、頭の中になかった。
ドラコを永遠に失うかもしれない。
たった今、その可能性が輪郭を持った。
輪郭を持った恐怖は、漠然とした不安よりずっと残酷だった。逃げ場がない。否定もできない。具体的だからこそ、脳がそれを本物として受け取ってしまう。
ハリーは顔を上げた。
目はもう焦点を失いかけているのに、その奥にだけひどく剥き出しのものがあった。
「止めないと」
誰に言うでもなく、そう呟く。
ロンとハーマイオニーが息を詰める。
ハリーの声は震えていた。
だが震えの芯にあるのは、さっきまでの迷いではない。追いつめられた人間の、剥き出しの恐怖だった。
「今すぐ」
呼吸が乱れる。
「今すぐ行かないと」
その顔を見て、ハーマイオニーは初めて本当に青ざめた。
ハリーはもう、立ち止まっていられる場所にいなかった。