テラーノベル
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婚姻の儀が行われるその日、ドラコは一睡もできなかった。
眠ろうと目を閉じるたび、現実のほうが容赦なく鮮明になった。
決まった日取り。用意された礼服。父の揺るがない声。母の、慰めようとして結局は逃げ道を塞ぐしかない苦しげな表情。
だから夜は、ただ長かった。
窓の外が白み始めても、眠気は来なかった。
代わりにあったのは、ひどい倦怠感と、全身を薄く覆う寒気だけだった。体調は戻ったはずなのに、身体の芯はまだどこか弱っていて、熱の名残にも似た鈍さが抜けない。
夜明けとともに、屋敷しもべ妖精たちが部屋へ入ってきた。
誰も大きな声は出さない。
だが動きは慌ただしかった。湯の用意。洗面器。温めた布。香油。櫛。衣服。すべてが整然と並べられ、ドラコはその中心へ座らされた。
鏡の中の自分の顔はひどかった。
頬は痩せ、目の下には濃い影が落ちている。肌は青白く、唇の色も薄い。たった二週間かそこらで、ここまで人は変わるのかと、ドラコ自身が一番驚いた。
「坊ちゃま、お顔色を整えます」
老いたしもべ妖精が震える声で言う。
柔らかな布が額へ当てられる。
次に、冷たい化粧水が頬と首筋へ叩き込まれる。乾き切った肌がその冷たさを一瞬だけ弾き、それからじわりと吸い込む。屋敷しもべ妖精たちは必死だった。少しでも人間らしい顔色に戻そうと、何度も何度も丁寧に指先を動かす。
ドラコはそれを、ほとんど他人事のように受けていた。
顔色を整えて、髪を整えて、礼服を着せる。
その一つひとつが、自分を“今日の役割”へ押し込める工程に思えた。
やがて、白いシャツの上に礼服が重ねられた。
上質な黒の生地。銀の刺繍。襟元は首を絞めるように正確で、袖口は一分の乱れも許さない。いかにもマルフォイ家らしい、隙のない装いだった。
鏡の中には、整えられた青年がいた。
だが、その目だけはどうにもならなかった。
そこへルシウスが現れた。
父は上機嫌だった。
珍しいほどに。
すべてが滞りなく進んでいる。家の名にふさわしい縁談がまとまり、息子は正しい道へ戻され、今日という日はその確認の場になる。そう信じて疑わない人間の静かな満足が、ルシウスの輪郭をわずかにやわらげていた。
「よくなったな」
その言葉に、いたわりはない。
体調ではなく、見た目が“儀に出せる程度”に整ったことへの確認だった。
ドラコは返事をしなかった。
返事を求められてもいなかった。
ルシウスは鏡の中の息子を眺め、それから短く言った。
「今日は余計なことをするな」
それだけで十分だった。
父にとって、自分は今日のこの場を乱す危険物でしかない。失言をしないこと。恥をさらさないこと。立っているべき位置にきちんと立つこと。それが最低条件なのだ。
ルシウスが出ていったあと、ナルシッサが入れ違いに部屋へ来た。
彼女はドラコの姿を見るなり、胸の前で手を組んだ。
ほんの少し微笑もうとしたが、その笑みはうまく形にならない。
「とてもよく似合っているわ」
その言葉は、母として言うべきことなのだろう。
だが今のドラコには、慰めにも祝福にも聞こえなかった。
「やめてください」
思ったより鋭い声が出た。
ナルシッサがはっとする。
「ドラコ」
「似合っているとか、そんなこと」
ドラコは鏡を見たまま言う。
「今は何の意味もない」
沈黙が落ちる。
ナルシッサは少しだけ目を伏せた。
そして、できるだけ穏やかな声で言う。
「今日を越えれば、少しは落ち着くわ」
その言葉には、母なりの願いがこもっていた。
「すべてが終われば、今の混乱も」
「終わらない」
ドラコは低く言った。
「これが始まりなんでしょう」
ナルシッサはそれに答えられなかった。
その沈黙が、かえってドラコを苛立たせた。
母が悪いわけではない。分かっている。彼女なりに、自分を守れる最小の道を探しているのだと。
でも、今欲しいのはそんな静かな諦めではなかった。
大丈夫だと言ってほしいわけでもない。
ただ、これが自分の望む人生ではないことを、誰かにまっすぐ認めてほしかった。
だが、この家ではもうそれすら贅沢だった。
「一人にしてください」
ナルシッサはしばらく立ち尽くし、それから小さく頷いた。
出ていく前、彼女は一度だけ息子の肩へ触れようとして、結局その手を引っ込めた。
部屋に残ったのは、自分と鏡だけだった。
ドラコはそこに映る顔を見つめた。
綺麗に整えられた輪郭。正しい服装。正しい家の息子。だが、その中身はひどく空っぽだった。
今日が来てしまった。
もうそれしか考えられなかった。
⸻
一方その頃、ハリーはホグワーツでまともに息をしていなかった。
婚姻の話を聞いてから、頭の中のどこかがずっと軋んでいる。
眠ってもすぐ目が覚める。食事の味がしない。何かに集中しようとしても、気づけばマルフォイ家の門の向こうばかり想像している。
ドラコは今、どこにいるのか。
どんな顔をしているのか。
もう準備は始まっているのか。
誰かが彼の手を取るのか。
その場に、自分はいないのか。
そう考えるだけで胸の奥が冷えた。
「絶対だめよ」
ハーマイオニーが言ったのは、その日の昼前だった。
場所は談話室の隅。声を潜めても、空気そのものが緊張で張っている。
「一人でマルフォイ家へ行くなんて、論外」
彼女は机に両手をついている。
「今のあなた、完全に冷静じゃない」
「冷静でいられるわけないだろ!」
ハリーの声が思わず大きくなる。
ロンが慌てて周囲を見る。
「ハリー、落ち着けって」
「落ち着けるわけないだろ」
ハリーはロンを見た。目は赤い。眠っていないのが分かる顔だった。
「時間がないんだよ」
ハーマイオニーは苦しそうに目を閉じた。
だが、言うべきことは変わらない。
「だからって、あなたが無策で突っ込めば全部終わる」
静かに、しかし強く言う。
「マルフォイ家は、あなたが考えているよりずっと危険よ。結界もある、警備も厳重。見つかれば、あなた一人の問題じゃ済まない」
「じゃあどうすればいいんだよ」
それは怒鳴り声ではなく、ほとんど悲鳴に近かった。
ハーマイオニーは答えを持っていなかった。
持っていないからこそ、余計に苦しい。
「今は」
彼女は絞るように言う。
「情報を集めて、少しでも隙を探すしか」
「その“少し”のあいだに、全部決まるかもしれない」
その通りだった。
誰も言い返せない。
沈黙だけが落ちる。
その沈黙の中で、ハリーは自分の中の何かが限界を超える音を聞いた。
もう待てない。待っていられない。理屈は分かる。危険だということも、突発的な行動が最悪の結果を呼ぶ可能性も、全部分かる。
それでも、行かなければならない気がした。
たとえ何もできなくても。
たとえ門の外から見ることしかできなくても。
ドラコが本当にそこにいて、何が起きようとしているのか、自分の目で確かめなければ気が狂いそうだった。
その日の午後、ハリーは透明マントを持ち出した。
誰にも言わなかった。見つかったらただでは済まない。
言えば止められる。止められたら、たぶん本当に壊れる。
マントを肩へかける手が震えている。
恐怖ではない。いや、恐怖もある。だがそれ以上に、焦りのほうがずっと強い。
間に合わないかもしれない。
その思いだけが、背中を押していた。
⸻
マルフォイ家の屋敷が見えた時、ハリーは思わず息を止めた。
門の外からでも分かるほど、屋敷は飾り立てられていた。
中庭へ続く道の両側には白い花が並べられ、魔法で編まれた銀の飾りが木々の枝を渡っている。噴水には薄い光が落ち、石畳は磨き上げられ、使用人たちが忙しく行き交っている。
これは、ただの訪問ではない。
何かが行われる。
しかも、かなり正式な形で。
ハリーの胸の中で、嫌な予感が現実へ変わり始める。
婚姻の儀当日だ。
その可能性に思い至った瞬間、胃が強く縮んだ。
知らなかった。今日だなんて。何も知らないまま、今まで時間を失っていたことが急に恐ろしくなる。
「くそ……」
透明マントの下で、ハリーは小さく吐き捨てた。
もっと早く来るべきだった。
もっと無茶でも何でも、手を打つべきだった。
そう思っても遅い。もう目の前の中庭は、今日という日のために整えられている。
その時、門の向こうで馬のいななきが聞こえた。
豪華な馬車が入ってくる。
黒塗りの車体に銀の紋章。従者が先に降り、扉を開ける。中から現れたのは、美しい女性だった。年若い。髪は丁寧に結い上げられ、淡い色のドレスが陽を受けて静かに光る。そのあとに続いたのは、身なりの整った中年の夫婦。動きにも言葉にも、慣れた上流の空気がある。
位の高い家だと、ハリーにもすぐ分かった。
門の正面までルシウスが出てくる。
その顔には、ホグワーツで見たことのない種類の歓迎があった。誇らしげで、満足していて、何もかもが正しい形に収まっていると信じる人間の余裕。
その光景を見た瞬間、ハリーの胸の中の恐怖が、とうとう具体的な重さを持った。
本当にやるつもりなのだ。
今日、この場で。
透明マントの下で指先が痺れる。
足元が少し揺れる。今すぐ飛び出して全部壊したい衝動が、喉までせり上がる。けれどここで動けば終わる。見つかった瞬間、自分もドラコもどうなるか分からない。
だからハリーは、ただ息を殺して立ち尽くすしかなかった。
その時だった。
中庭の奥、人の列の向こう。
白い花飾りと黒い礼服の影の間に、見慣れた金髪を見つけた。
ドラコだった。
遠い。
それでも、ハリーには分かった。
やつれている。
礼服に包まれ、遠目にはきちんと整えられている。だがそれだけだった。頬は削げ、顔色は悪い。立っているだけで精一杯という空気が、距離があっても分かる。姿勢は崩していない。崩せないのだろう。そうやって立つしかない人間の硬さがある。
その姿を見た瞬間、ハリーの胃の奥がひどく抉られた。
「ドラコ……」
声にはならない。
息の形で漏れただけだった。
こんなにも弱っている。
二週間。地下室。高熱。許嫁。
知っていた単語が、今、目の前の一人の人間の姿で繋がってしまう。
ドラコは中庭の華やかさの中で、ひどく場違いに見えた。
正しい礼服。正しい立ち位置。正しい家の息子。なのに、その中身だけが明らかに追いついていない。ここにいてはいけない人間が、完璧な装いのまま立たされている。
ハリーは強く目を閉じたくなった。
だが閉じられない。
見なければならない。
ここまで来て、やっと会えたのだ。遠くても、声をかけられなくても、見ていなければいけない気がした。
ドラコは何も言わない。
言えるはずがない。
ただ、人々の中に立ち、父の望む形の一部としてそこに置かれている。
そのことが、ハリーにはたまらなくつらかった。
助けたい。
今すぐ連れ出したい。
でも何もできない。
透明マントの下で、ただ見ていることしかできない自分の無力さが、胃の底を焼く。遅かった。間に合わないかもしれない。その考えが、いよいよ現実の輪郭を持ちはじめる。
もしこのまま、本当にドラコが誰かのものになったら。
もしここから先の人生が、そのまま父親の決めた道へ押し流されてしまったら。
もし、もう自分のところへ戻れなくなったら。
その想像は、恐怖を通り越して空白に近かった。
頭の中が真っ白になる。何も考えられないのに、胸だけがひどく痛い。
ハリーはマントの下で拳を強く握った。
目の前には祝祭の飾り。
歓迎の笑み。
整えられた儀式の空気。
そして、その中心に立つ、やつれ果てたドラコ。
それはあまりにも残酷な絵だった。
ハリーはただ、遠くからその姿を見ることしかできなかった。
その無力さが、何よりも苦しかった。
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