古くは王の宮殿であり、また巫女たちの議事堂でもあった毛皮城は今ではシシュミス教団の神殿としてビアーミナ市の中心地区――少し北東寄り――に歴史を通じて動乱を越えて変わらぬ姿で聳えている。石造りの堅固で無骨な建物だが、縦に斜めに伸びる奇妙な柱に覆われている。鳥の巣か、あるいは蛹のようだ。
中心地区までこそこそとやって来たユカリとベルニージュは教団に貸し与えられているという屋敷に向かっていた。まるで妖精の国へと至る秘密の手順をなぞるように人通りの少ない裏通りを抜け、猫の通り道のような隠された通りを過ぎ、一見見紛う壁の隙間のような抜け道を通る。そのどこからでも、小高い丘の上に建てられたモルド城が眺められた。
「城が脱皮してるみたいだね。なんで毛皮って名前なの?」とユカリはベルニージュにビアーミナ市の歴史を教わりつつ口を出す。
「あの支柱を支えにして天幕みたいに毛皮を張ってたらしいよ」
「毛皮を? 革でも毛氈でもなく? 何のために? 日光はいいとしても雨を防ぐのに良い方法とは思えないけど。夏なんてもう――」
「一々手入れしていたか、撥水魔術でも利用していたか。どうあれ神が喜ぶなら何だって良いんだよ」
そう言われてしまうとそういうものか、とユカリは納得する他になかった。
宮殿とはいかないが貸し与えられた屋敷は立派なものだ。こちらにもモルド城ほどではないが一見使途不明の柱が棟や壁から伸びている。引っ繰り返った虫の死骸のような輪郭だが、窓框や礎石に施された精緻な彫刻、贅沢な装飾金物から元の住人の裕福さが窺える。少なくとも四人それぞれのための寝室がありそうだ。
「ユビスはどこにいるの? 私とお喋りできなくて寂しがってなかった?」ユカリは屋敷の荒れ果てた庭を見渡して尋ねる。
あまり元気はないが草が伸び放題だ。ユビスがいたなら綺麗に召しあがったはずだ。しかし大きな毛むくじゃらの姿はどこにも見当たらない。
「モルド城の厩舎だよ。石畳の隙間から雑草の生えているような街とはいえ、ユビスには物足りないからね」
「つまりシシュミス教団が預かってくれてるってこと? 親切だね。飼料代が心配だけど」
「もしかしたら馬質のつもりかも。まあ、ユビスの蹄にかかれば厩舎なんて一蹴りで木っ端だろうけど」
玄関の扉が勢いよく開き、レモニカが飛び出してきた。ソラマリアのそばからユカリの元へ、本来の美しい王女の姿からユカリの母エイカの姿へ変身し、ユカリをひしと抱き締める。
「嗚呼、ユカリ様。わたくしがどれほど重いため息を漏らし、夜ごと枕をしとどに濡らしたことか、天に瞬く星々の消え去った夜にも比肩する悲嘆は言葉を尽くしても語り尽くせません。魂の灯火が消え去らんほどの思いでユカリさまの身を案じておりました。後にも先にもこれほど悲しみに暮れたことはありませんわ」
ユカリはその思いに感動しつつも一つ指摘する。「シグニカ行きの船で私が海に落ちた時は?」
「ああ、あの時はユカリさまにのろ……」涙を拭いつつ浮かんだレモニカの微笑みが硬直し、しかしすぐに再び悲しみを湛え、舌をもつれさせて答える。「ええ、まあ、それは、もちろん! あの時も今と同じくらい身を案じていましたわ。それより一体何があったというのです?」
「何があったのかは私にも分からないけど」ユカリは苦笑いする。「レモニカたちと同じ目に遭ったって言えば分かってもらえるんじゃないかな」
「とても分かりましたわ。あれは怖かったですわねえ。空を飛ぶことなんてそうあることではありませんもの」
隣にやって来たソラマリアをもユカリは続いて抱き締める。
ソラマリアは少し驚いた表情で淡々と言う。「まだそこまでの関係ではないと思っていたのだが」
勢い余ったのだった。
「まだということは、これからかけがえのない仲間になるってことですよ」とユカリは頬を染めてしどろもどろに言い訳する。
「はたしてそうでしょうか」とレモニカは冷たく言い放った。
屋敷にたどり着いて早々ひと眠りし、浮足立つような芳ばしい香りによってユカリは目が覚めた。朝露は滴らず、小鳥は寝ぼけ眼で、星の瞬きは姿を見せないが、時間帯としては朝なのだという。クヴラフワに放り込まれてから今までユカリの旅は昼も夜も分からなかったので疲れ具合を目安にしていた。
ユカリは久々にまともな食事をとる。メグネイルの街の人々には申し訳ない気持ちでいるが、大きな茸を焼いただけのものや妙な臭いの移った干し肉などではない。
挽肉と香草を詰め込んで皮をかりかりに焼いた鴨肉。香り高い鹿肉とすりおろした乾葱や豌豆、菠蔆草、合掌茸ではない茸のどろりとした煮込み。どこから用意したのか焼き立ての香り豊かな麺麭。全てが鼻と舌と喉と腹を喜ばせる。まさに聖地という他ない。
食事をしながらラゴーラ領、メグネイルの街での出来事を旅の仲間たちに語る。
街で指導者の地位にあったシシュミス教団。闇の呪いに苦しめられていたメグネイルの市民。彼らの信仰するマルガ洞。クヴラフワ呪災の一つとされる『這い闇の奇計』。輝く煙として現れ、首飾りとして顕れた魔導書。そして沈黙するグリュエー。ユカリにはただ起きたこと、見聞きしたことをそのままに語るしかできない。
「つまり強力な呪いの土地クヴラフワにたまたま強力な解呪の魔導書があったってこと?」
ベルニージュの言わんとしていることに皆が同じ疑問を浮かべる。確かに偶然にしては出来過ぎかもしれない。
「そういえば外で聞いた話だと、むしろ呪いの強さの原因が魔導書じゃないかって話だったね」とユカリは思い返す。
「そうだね。戦争に使うにしては強力すぎるからね。人も土地も失っては戦争する意味がない。だから魔導書が絡んだ事故なのだろうと。あくまで推測だし、まあ、外れてたわけだけど」
皆が頭を捻り、ベルニージュの提示した疑問と向き合う。
「それはそうと、もしもラゴーラ領全体を解呪するような強力な魔導書であるなら、レモニカ様の呪いも解けるのではないか?」とソラマリアが指摘する。
「試す価値はありますが大地が歌い出すというのは少々考えものですわね」とレモニカはユカリとベルニージュのほうを見て呟く。「特にこうして隠れ潜んでいる時には」
「そうだね。わざわざクヴラフワにある魔導書の手に入れ方を機構や大王国に教える必要はない」とベルニージュは断ずる。
「呪われていない者はそう言えるだろうな」とソラマリアがちくりと刺す。
「確信もない解呪方法を早く試す為にクヴラフワ衝突を再燃させろって言いたいの?」とベルニージュが冷ややかに言い返す。
「ベルニージュ様を侮辱することはわたくしが許しません」とレモニカが釘をさす。
ユカリは首飾りに伸ばしかけた手を引っ込め、引っ込めかけた手を伸ばす。
信じられないという目で見るベルニージュにユカリは言い訳する。「違うよ。歌わないよ。それはそれとして、この魔導書でも変身できるって言ったでしょ? その時も『這い闇の奇計』に手出しされなかった。つまりレモニカがこの首飾りで変身すれば魔法少女と同様に呪いを弾くことができるかも、と思って」
「試す価値はあるね。魔導書の所持をばれる心配もない」と今度はベルニージュも肯ずる。
「いえ、教団に露呈しますわ」とレモニカが否む。「すでにわたくしの呪いの概要は話してしまいました。成り行きで魔導書を触媒とした解呪の魔法や、かの万能の霊薬さえも歯が立たなかったことも話してしまいました」
「今解けば、それ以上の魔法を手に入れたのだとばれてしまう、と」ソラマリアが呟くと沈黙の帳が降りた。
「慎重に参りましょう。試すならば魔導書を完成させる直前にお願いします。別に急ぎませんもの。お気になさらず」とレモニカは努めて明るく言いのけた。
その後会話が弾むこともなく、食事を終えた。
グリュエーについては誰も触れなかった。彼女たちにとっては気ままで子供っぽい相棒などではなく、ユカリの言うがままに働く風でしかないのだ。ユカリの感じた孤独をユカリと同じように分かってやれる者はいなかった。
「ソラマリアさんのこと怒ってるんだよね?」とユカリは臆さずに訊く。
食事の片づけを終え、まだ何も知らない仮宿をレモニカが案内してくれていた時のことだ。まだ埃っぽい臭いの残るレモニカの部屋で二人きりになり、ユカリは意を決した。
「怒っているというよりも、いえ、怒ってもいます。我が呪いが仕組まれたものとはいえソラマリアの手によって運ばれた呪いであること、それを隠していたこと。ですが、事態は複雑ですもの。ソラマリアは今なおわたくしのことを嫌っていますわ」
レモニカは最も近くにいる者の最も嫌いな生き物に変身する呪いを受けている。そしてレモニカのそばにソラマリアがいるとレモニカ自身の姿になる。その呪いは彼女の姉である聖女アルメノンこと王女リューデシアのかけた呪いだ。だが、レモニカの言いたいことはそこではないらしい。
ユカリは血管と臓腑を傷つけずに解体するように繊細な感情の琴線に触れぬよう言葉を選ぶ。
「言うなれば、素直に怒れない、とか? ソラマリアさんの事情も事情だし」
「そうですわね。ソラマリアの我が母への想い。意図せずして我が姉の呪いの運び手となったこと。そして何より、彼女自身も生き別れの妹と死別してしまったこと。それらを知って、それらを知らないふりはできません。わたくしの内にも彼女を責めたいどす黒い感情が渦巻いていますが、傷心につけ込むのはさすがに憚れますわね」
とても口には出せないが、ユカリにはネドマリアの死でソラマリアがそれほど深く傷ついているとは思っていなかった。何せほとんど記憶も朧なほど幼い頃の生き別れだ。生前にネドマリアも似たようなことを言っていた。
ユカリにも四人、もしくは五人の兄姉がいる。長女エイカの娘である自分を、義母ジニは娘として育てたので少しややこしい。兄姉は皆魔法使いの宿命に従い、ユカリが物心つく前に家を出て行った。兄姉を失うこと、その時の気持ちは上手く想像できない。ユカリが唯一朧気ながら見た目を記憶しているのは一番下の兄だが、会話した覚えすらない。むしろ一番下の姉とは何度か手紙を交わしたので、もしも死に別れたなら悲しみを覚えるだろう。
ソラマリアも似たようなものではないだろうか、と考えていた。生き分かれた後に限れば、自分やレモニカ、ベルニージュの方がネドマリアと長く深く交流していた。ベルニージュに至っては久しぶりに出逢った趣味の近い友人の死に少なからぬ動揺をしていた。
という、想いを比較するような考えは、とても口には出せないが。
「正直な話、私が聞いた話だけだと」ユカリは暗い雰囲気を押しのけようと努めて明るく話す。「ソラマリアさんがレモニカを嫌う理由がよく分からないんだよね。レモニカはソラマリアさんが尊敬する女性の娘で、護女時代の友人の妹でしょ? 好きになるべきとは言わないけどさ。嫌ういわれもないよね」
「それだけわたくしがまだソラマリアのことを、彼女の想いを知らないということですわね」
気を紛らわせようと、慰めようとして失敗した。屋敷の案内が頭に入って来なくなってしまった。
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