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第十九話 私たちもう一生 分かり合えないと 分かっていたでしょう
私は舌打ちをした。
ゆっくりと体を起こす。
関節が軋む。だが、動く。
周囲に人影はない。
そうか。
きっと、私を放棄して下山したのだ。
ああ、それでいい。
いつまでも私の死体を想像していろ。
何かを成し遂げた気でいろ。
化粧もできないあの顔は忘れないわ。
いつも正しさを説いていたあなたは、結局、誰かの意志をなぞるだけの無様な傀儡もどきだった。
吹雪の中、自分の体を抱き込むようにして立ち上がる。
私も下山しよう。
……いや、待て。
アルプスの足元に広がる盆地はシャンベリー家が支配している。
山の入り口付近には、アディポセラの館がある。
もしそこで鉢合わせれば。
今、手に入れかけた自由が、また首に巻き付く。
想像しただけで、鳥肌が立つ。
下山するときも警戒がいる。
アディポセラがこの世界からいなくなるまでは。
まだ、自由とは言えない。
私は警戒しながら下山を始めた。
ふと、空を見上げる。
暗い。
そうだ、この国は白夜ではない。
夜になれば、月や星が顔を出す。
何度見ても、夜空は整いすぎている。
暗闇でも、わずかな光がある。
だが、今は違う。
吹雪が視界を削り、周囲は曖昧だ。
明るい雪原には慣れているのに。
故郷よりは寒くないはずなのに。
月や星のちっぽけな光で導いてもらうなど、無理な話だ。
それでも、足を下へと運ぶ。
そのとき、紅いものが視界をかすめた。
腐れ落ちるささくれだった。
手袋が外れかけている。
アディポセラから渡されたもの。
寒さ凌ぎになるのならば、ここで脱ぎ捨てるのは勿体無い。
本当は今すぐにでも手放したい。
直そうとしたとき、気づく。
巻かれていたリネンの切れ端がない。
外されたのか。
でも一体、なんのために。
そこからささくれが取れて目に入ったのだ。
自由という快楽のための甘噛み一つでついた傷。
それに雪が降り、染み込み、神経へ痛みが雷のように走った。
おかげで痛みが止まないわ。
私はまた思い出した。
懐を探るが、ない。
火打道具の入った皮袋。
落としたのか。
……いや。
取り出したのだろう。
全くもって、なんて彼女らしいのだろう。
◇
どのくらい歩いたのか分からない。
吹雪は止まない。
私は、ほんの少しだけ怖くなった。
──怖くなったり、心配になったりしたときには、そう唱えましょう──
アディポセラの言葉が脳内をよぎった。
おまじない。
5文字。
……くだらない。
一生お前はその5文字を消せぬまま生きていろ。
私の眼を踏み潰して自由を鎖で縛り、何か正しいことをしたと、顕した気でいろ──
刹那。
足が止まる。
疲労ではない。
狂気でもない。
人が、倒れている。
雪に半ば埋もれた影。
見覚えのある輪郭。
足元には、黒い紐が近くに落ちていた。
私はそれを拾い、しばらく、それを眺めていた。
……これは。
アディポセラがよく髪を束ねていた黒い紐。
……まさか。
アディポセラ。
指先は青白く、睫毛に雪が積もっている。
動かない。静かだ。
口角が上がっていることに、少し遅れて気づく。
声は出なかった。
鎖が、外れた。
アディポセラは動かない。
睫毛に積もった白が、ゆっくりと厚みを増していく。
終わったのだと、理解するまでに少し時間がかかった。
ようやく。
胸の奥が、じわりとほどける。
ああ。
そうだ。
私たちは、最初から。
──私たちもう一生、分かり合えないと
分かっていたでしょう。
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