テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#そのじん
のりもちさん
361
1,897
仁人side
ほとんど眠れなかった。
目を閉じると。
昨日のことが戻ってきた。
掴まれた腕。
逃げようとしても離れなかった手。
嫌だと言った自分の声。
そして。
知らない人に触れられた感覚。
思い出すたび。
胃の奥が気持ち悪くなった。
途中から。
眠ることを諦めた。
朝になって。
いつもの時間に起きた。
シャワーを浴びる。
いつもより長く。
身体を洗って。
一度流して。
それでも。
また同じところに手が戻った。
もう何も残っていない。
分かっている。
昨日のことは。
とっくに終わっている。
それなのに。
触れられた感覚まで。
一緒に流れてくれる気がしなかった。
もう一度。
身体を洗う。
何度目かで。
ようやく手を止めた。
髪を整えて。
服を着る。
鏡の前に立つ。
そこには。
いつもの自分がいた。
昨日破れたシャツではない。
髪も整っている。
見えるところには。
何も残っていない。
仁人は鏡から目を逸らした。
今日は仕事がある。
休むことも考えた。
でも。
休めば。
きっと聞かれる。
どうしたの。
大丈夫。
何かあった?
それが嫌だった。
仕事をしていた方がいい。
忙しくしていれば。
考えなくて済む。
そう思った。
楽屋へ入ると。
大智がいた。
「おはよ」
「おはよう」
いつも通り。
少しして。
柔太郎と舜太も来た。
いつもの朝が始まる。
誰かが喋って。
誰かが笑って。
仁人も適当に返す。
それだけで。
少しだけ。
昨日が遠くなった気がした。
柔太郎が隣に座る。
肩が触れた。
仁人は一瞬だけ息を止めた。
……大丈夫だった。
舜太が後ろを通りざま。
仁人の肩に手を置いた。
「じんちゃん、これ見た?」
「何」
普通に返せた。
そのことに。
自分でも少し驚いた。
大丈夫。
そう思った。
まだ。
普通にできる。
そのとき。
楽屋の扉が開いた。
「おはよ」
仁人の指が止まった。
勇斗だった。
顔を上げる。
目が合う。
それだけで。
背中が強張った。
「……」
何で。
分からなかった。
勇斗は何もしていない。
ただ。
そこにいるだけ。
なのに。
身体が。
勝手に構えた。
「仁人?」
勇斗がこちらへ歩いてくる。
一歩。
近づく。
その瞬間。
知らない手が。
腕を掴んだ気がした。
「……っ」
仁人は身体を引いた。
椅子の背が腰に当たる。
勇斗が止まった。
仁人も動けなかった。
違う。
勇斗だ。
分かっている。
昨日の人じゃない。
勇斗は。
何もしていない。
それどころか。
そばにいてくれた。
昨日。
自分が来るなと言ったら。
止まってくれた。
それなのに。
身体だけが。
言うことを聞かなかった。
「……ごめん」
勇斗は一瞬黙った。
「ううん」
それだけだった。
すぐに距離を取る。
その瞬間。
張っていた息が。
少しだけ抜けた。
仁人は俯いた。
それが。
嫌だった。
撮影が始まった。
仕事に入れば。
考える暇は減った。
スタッフの声を聞いて。
立ち位置を確認して。
カメラを向けられれば。
いつものように動く。
柔太郎と並ぶ。
肩が触れる。
平気だった。
舜太に後ろから呼ばれて。
振り返る。
平気だった。
だから。
余計に。
勇斗が近くへ来るたびに。
身体が強張ることが。
分からなかった。
ただ隣に立っただけ。
まだ。
触れてもいない。
それなのに。
勇斗が腕を動かしただけで。
仁人の視線がそちらへ向く。
手。
肩。
自分より大きな身体。
そのとき。
一瞬。
昨日の男が重なった。
「……っ」
息が詰まる。
違う。
勇斗だ。
見慣れた顔。
聞き慣れた声。
間違えるはずなんてない。
それなのに。
自分より高い位置にある肩が。
目の前を塞ぐ身体が。
昨日の記憶を引きずり出す。
掴まれた。
離せと言った。
それでも。
手は離れなかった。
逃げようとして。
下がって。
それ以上。
もう下がれなかった。
「……」
仁人は咄嗟に腕を掴んだ。
もう。
誰にも触れられていない。
目の前にいる勇斗も。
こちらへ手を伸ばしてすらいない。
それなのに。
掴まれた感覚だけが。
腕に蘇った。
気持ち悪い。
勇斗が何か言っている。
でも。
一瞬。
聞こえなかった。
違う。
勇斗じゃない。
勇斗は違う。
分かっている。
なのに。
身体は。
分かってくれない。
休憩に入って。
仁人は一人で廊下へ出た。
壁に背を預ける。
目を閉じた。
勇斗は悪くない。
そんなこと。
考えるまでもない。
昨日だって。
何も聞かなかった。
勝手に触れなかった。
自分が歩けるようになるまで。
ずっと待ってくれた。
それなのに。
その勇斗が近づくと。
身体が逃げる。
「……なんでだよ」
声が漏れた。
そのとき。
後ろで扉が開いた。
仁人の肩が跳ねる。
振り返る。
勇斗だった。
また。
身体が強張った。
勇斗も気づいた。
すぐに止まった。
その距離のまま。
動かない。
「……ごめん」
気づけば。
また謝っていた。
「なんで仁人が謝るの」
「だって……」
言えなかった。
勇斗は何もしていない。
だから。
何を謝ればいいのかも。
分からない。
仁人は俯いた。
「俺、勇斗のこと怖くないから」
「うん」
「本当に」
「分かってるよ」
すぐに返ってきた。
仁人は顔を上げる。
勇斗は。
いつもと同じだった。
その顔を見ていると。
余計に苦しくなる。
「昨日のこと、思い出すんでしょ?」
仁人は黙った。
少しして。
小さく頷く。
「……触られたの」
声が掠れた。
それだけで。
腕に。
また嫌な感覚が蘇る。
仁人はそこを押さえた。
「嫌だって言ったのに……」
続きを言おうとして。
やめた。
勇斗も。
聞かなかった。
少しだけ。
沈黙が落ちる。
「たぶん……」
仁人は勇斗を見る。
すぐに視線を逸らした。
「体格が、似てる」
「……俺と?」
小さく頷く。
「顔とかじゃない」
喉が詰まる。
「近くに来られたときの……感じ」
それ以上。
うまく言えなかった。
仁人は腕を握った。
「勇斗が近づくと……」
息が震える。
「また触られる気がする」
勇斗は動かなかった。
仁人は唇を噛む。
「違うって分かってんのに」
目の奥が熱くなる。
「勇斗じゃないのに」
一粒。
涙が落ちた。
「昨日触られた感覚が……消えてくれない」
言った瞬間。
もう一粒落ちた。
仁人はすぐに拭った。
「……嫌だ」
声が小さくなる。
「なんで勇斗なんだよ」
勇斗は何も言わない。
仁人は俯いた。
「俺、勇斗のこと怖くないのに」
本当は。
昨日みたいに。
そばにいてほしい。
一人でいるより。
勇斗がいた方が安心する。
そう思っているはずなのに。
近づかれると。
身体が逃げる。
「……もう行って」
勇斗は少しだけ間を置いた。
「一人になりたい?」
仁人は頷いた。
「分かった」
それだけ言って。
勇斗は離れていく。
扉が閉まった。
仁人は壁に背を預けた。
大きく息を吐く。
身体から。
力が抜けた。
楽になった。
そのことに気づいて。
仁人は目を閉じた。
昨日は。
勇斗が来てくれて。
あんなに安心したのに。
今は。
勇斗がいなくなったことで。
安心している。
「……嫌だ」
涙が落ちた。
勇斗が怖いわけじゃない。
そんなこと。
自分が一番分かっている。
なのに。
身体だけが。
勇斗から離れたことに。
ほっとしていた。
それが。
何より。
悲しかった。
コメント
1件
第3話、読みました……胸が苦しくなりました。仁人が「勇斗じゃないのに」と自分を責めながら、身体が言うことを聞かなくて、勇斗が離れたことにほっとしてしまう——その自己嫌悪と悲しみが、短い一文一文にぎゅっと詰まっていて、読んでいるこちらの喉も詰まるようでした。特に「体格が似てる」と勇斗に伝える場面、本人に言うのがどれほど辛かったか。勇斗の「うん」や「分かった」の静かな受け止め方も、仁人を一人にしない優しさがにじんでいて沁みました。続き、すごく気になります。