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ユカリは自分に何が起こっているのかようやく分かる。分厚い嵐雲に遮られたために暗いわけでも、横殴りの豪雨に打たれた故に濡れているわけでもない。今、暗い水の中にいた。上も下も分からない。その暗闇はユカリが想像してきた沢山の死者の国の中でも、最も恐ろしくて、しかしあまりにもつまらない空想とよく似ている。優れた吟遊詩人ならば決して披露することのない、魅力に欠けた恐怖だ。暗くて息ができず、茫漠として広いのに窮屈で、行く当てもないのに永遠に彷徨う。どうやら海に沈んだので間違いない。
まさか本当にこのような事態になるとは思っていなかったが、このような事態の対処法をユカリはあらかじめ考えていた。とはいえぶっつけ本番になってしまった事でさらなる恐怖と不安が渦巻く。挑む決心と覚悟は最初の一歩を踏み出す前に終えていなくてはならないのだとよく分かる。
どちらに上や下があるのか分からないが、とにかく前に手を突き出して、ユカリは魔法少女の杖をはっしとつかみ、空想の向こう側から引っ張り出す。そして杖の柄を口で咥え、しっかり水が入らないように唇を閉じたまま、噛み締めていた歯を開く。すると空気の泡が辺りに溢れた。何とか海水を鼻から押し出すと、口の中も肺の中もまた新鮮な空気に満たされる。
魔法少女の、おそらく第五の魔法だ。どうやら何もかもを噛み砕く第四の魔法によって噛まれた物はどこかに呑み込まれていたらしく、第五の魔法は呑み込んだそれを吐き出す魔法だった。だから、もしかしたら第四魔法の応用に過ぎないのかもしれないが、魔導書の記述では判別できなかった。
つまるところ噛んだ――実際は飲み込んでいた――物体はどこかユカリの目に見えない場所に保管されているらしく、いつでも任意に取り出すことが可能だった。とはいえ人間の口に入る大きさのものしか格納できないのは相変わらずだ。しかし水や空気のような流体も取り込めることが分かり、水中での呼吸も可能ならしめるのではないかとユカリは以前から考えていた。だからあらかじめ大量の空気を取り込んでおいたのだ。
水中で練習したことはなかったが、全てはユカリの狙い通りだ。この魔法を披露したかったベルニージュとレモニカは今そばにいないが、生き残ればまたいつか再会できる。
泡の方向から海上を見極めようとするが、海流は強く、かつでたらめで確信が持てない。たとえ呼吸ができても、深く潜り過ぎれば水の重さでぺちゃんこになってしまうという話をユカリは聞きかじっていた。いつどこで聞いたかは覚えていないが。
ユカリが次の決断をできないでいると、意志を持っているかの如き八本の黒い海流によって、まるで弱った獲物を巣に運ぶ獣のようにがっしりと喉笛をつかまえられて引きずり込まれる。空気を噴射して対抗しようと考えた途端、ユカリは意識を失った。
深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
走るのは得意? 泳ぐのは得意? 歌うのは? 踊るのは?
どうしてそうも知りたがるのか、と少女は彼女に問う。
どうしてこうも知りたがるのだと思う?
耳鳴りに起こされてユカリは意識を取り戻す。《死》は海の底まで迎えに来るのだろうか、などとおかしなことを考える。亡霊になってずっと孤独で真っ暗な海の中に居るよりは、英雄たちにお目通りできるかもしれない死の国の方が遥かにましだ。
今、ユカリの体は海中に浮いているのでなく、確かに堅い地面の上にある。耳を塞ぐような轟々という音は風だろうか。まだ嵐の只中にいるのだろうか。
ユカリはゆっくりと目を開き、ここが黄泉の国でないことを祈りつつ、一つ一つ確かめる。うつ伏せに倒れている。手に触れる砂は濡れている。誰かが感情的に喚き散らしているが風の音で聞こえない。どこかの砂浜へと流されたのだろうか。痛む体によく命じて上体を起こす。暗い。
何もかもが間違っていた。ユカリはまだ海中に、そしてより正確にいえば海底にいた。しかし水中にはいない。何が起こっているのか分からないが、ユカリは海の底にいながらにして呼吸ができることを感謝する。
海底の闇の中を空気が、風が真っ直ぐに立ち昇っている。あるいは真っ直ぐに吹き降りている。まるで竜巻の中心にでもいるかのように空気が海を押しのけて、海上から海底まで空気を運んでくれているのだ。そして天地開闢の時代よりずっと海底には本来存在しない昼間の陽光が僅かながら海底にまで届いていた。
「もしかしてグリュエー?」とユカリは頭上に輝く一番星の如き小さな青い光を仰ぎながら言う。
「そうだよ!」とグリュエーは力強く答える。「ユカリ。とりあえず言うことがあるんじゃない?」
「あ、そうだね。おはよう」
「うん。おはよう」
ユカリは自分の体に大きな問題がないことを確認しつつ、立ち上がる。
「それとありがとう」
「どういたしまして」
「ところで、グリュエーって本当に風なの?」
普通は風が海の底に吹き込んだりはしない、ユカリの知る限りは。もちろん、自分の知る限りなど世界の広さに比べれば瑣末なものだということをユカリはよく分かっている。もしかしたら海底にも、そして泉下にも風は吹くのかもしれない。
「風だよ。使命を携える特別な風」
自分の使命が何なのかもよく分かっていない風だけど、とユカリは心の中で呟く。言ったらその風の相棒は怒ると知っている上に、自分自身に跳ね返ってくる言葉でもある。
「まさか海の底まで空気を運べるなんてね。驚いたよ」
「だってグリュエーは窓を押し開いて吹き込むことができるんだよ?」とグリュエーは得意そうに言う。
ユカリは首を傾げて微笑み、辺りを見渡す。「同列に語れるかなあ」
「それにユカリが泡を出してなかったら見つけられなかったし、たどり着けなかった」
二人の会話に割って入るように低く、力強く、何もかもを押しのけるような物々しい声が海底の暗闇の向こうから威圧的に発する。「その不敬なる風は貴様の眷属か!?」
ずっと喚き散らしていたのはフォーリオンだったようだ。ユカリに再び心細さが去来した。真っ暗な海の向こうにぎょろりとした目や欲深い口や神秘に接する知識を持つ見たこともない怪物たちがいて、ユカリの死を今か今かと待ちわびているような、そんな気がしてきた。
どうやらまだフォーリオンの腹の中というわけだ。下手なことは言えそうにない。
「眷属というか友達です」とユカリは答える。「それと不敬という訳ではありません。こうしてくれないと私が死んでしまうので」
「吾輩は言ったはずだ。命で以て償えと」とフォーリオンは今にも何もかも押し流しそうな恐ろし気な海流の音とともに脅す。
「仰ってましたが、そういう訳にも参りません」お釣りは払えるの? という軽口を口の中で転がす。今言うべきことではない。「もちろん金貨千枚もすぐには用意できません」
「もはや金の問題ではない。人間ごときに海の眷属がたばかれたことこそが問題なのだ」
「お金のことを……」
持ち出してきたのはそっちでしょう?
「何だ?」
ユカリは飲み込んだ言葉を吐き出さないようにしつつ首を振る。「いえ、フォーリオン様、挽回の機会をくださいませんか? 金貨千枚にしても地上に上がらねばご用意できません」
地上に上がったところでどうなるものでもないが。
「我が君、申し上げます。私に提案があります」
その言葉はユカリでもグリュエーでもフォーリオンでもない何者かが発した。泡のような不安定な現れては弾けて消える声だ。しかし海底の闇の向こうには何も見えない。見える存在とも限らないが。
「申してみよ」とフォーリオンが偉そうに言う。
何者かが申す。「例の品を取り戻すことを試練とし、我が君への返却をもって贖罪となすのです」
しばらくの恐ろしい沈黙と静寂の後、フォーリオンは唸る。「なるほど。八方手を尽くしても見つからなんだ我が宝か。もはや海原を出て地上にあるのではないか、と申しておったのもお前だったな。良かろう。愚劣にして惰弱、かつ薄命なる人の子よ。我が宝、見事取り戻した暁にはその罪を帳消しとしよう」