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「ちょっと待ってください」我慢しきれずユカリは口を挟む。「何だか勝手に話が進んでますけど、宝って何ですか?」
場合によっては金貨千枚稼ぐ方が易しいということになりかねない。
「あとは私にお任せを」と何者かが言った途端、ユカリの目の前で光が溢れる。まるで山々の稜線から太陽が昇るように、暗い海底に波打つ線の艶めかしい光が現れ、幅広くなっていく。
それはまるで沢山の民を従える偉大な王の住む王城の如き巨大な貝が、王の帰還を出迎える厳かな門のように口を開いていた。巻貝のようでもあり、二枚貝のようでもある不思議な造形は、その圧倒的な巨大さの前に霞んでいた。貝の内側そのものが心臓の鼓動を打つように七色より多彩に光っているらしく、水底の暗闇に隠されていた深海の姿が露わになる。
子供の落書きのような姿の深海魚や南国の鳥のような毳毳しい色合いの甲殻類たちが巨大貝の生々しい光に怯えて逃げてしまうと、海藻一つない死の荒野が広がっているばかりだった。とはいえ、生き物を見たことでユカリの気持ちが幾分和らいだ。地上に住まう人間にとっては恐ろしい未知の深海にもここを喜びの原として生を全うする生き物たちがいるのだから、冥府はもっと違う形に違いない。そして怪物など見当たらないことにユカリはひとまず安心し、落胆する。
ユカリは今までに見たどのような建築物よりも巨大な貝を仰ぎ見る。巻貝の先端は尖塔のようで、人には知られることのない神秘の模様が描かれている。刻まれた深い溝は流れるように繊細な意匠を描き、沢山の海藻や普通の貝類が憩っていた。
貝の王ということなのだろうか。だとすればこの旅路において初めて手に入れたあの魔導書を使えば貝の王の姿に変身できたのだろうか。上手く使えるかは分からないが、今までに見たどんな動物の王よりも巨大なこの姿が地上に現れれば人々の驚きは類を見ないものとなるだろう、とユカリは想像する、その魔導書の呪文が鳴き声であることを忘れたまま。
「さて……」貝の王は光る口を開いたまま言う。「名前は何と言いましたか?」
ユカリはその蠱惑的で怪しげな光に向き合いつつも目を細めながら言う。「ユカリです! よろしくお願いします!」
貝はうなずきも目配せもしないので、ついつい声が大きくなる。
「ユカリ。噂はかねがね聞いてますよ」と貝の王は優しく言う。
「噂!? 海の底まで!?」ユカリは憮然とした面持ちで嘆く。
「何をいまさら。トイナムの入り江との件でこのような事態になっているのですよ。トイナムの入り江を弄んだ娘さん」
「何て人聞きの悪いあだ名!? 何度でも言いますけど騙した訳じゃありませんからね!?」とユカリは身を乗り出して抗議する。
「あるいは東の方の河口たちは『大河モーニアを手なずけた娘』と呼ぶ者もいるらしいですよ」
それはアルダニ地方での出来事だ。これまた火災を消火するために大河モーニアに手を借りた。
「ちょっと手伝ってもらっただけですよ!?」
気難しそうな大河にそのようなあだ名を聞かれればただでは済まなそうだ。
「話を戻しましょう、ユカリ」
まだ何も本題について話していないはずだ、とユカリは思い返す。
ユカリは一つ一つ思い出して言葉を紡ぐ。「フォーリオンさまの宝を取り戻す、ですね。具体的に宝とは何なんですか?」
「我が最高傑作です」と貝の王は誇らしそうに言う。
貝の作るものと言われると初めに思い浮かべるのは一つだ。
「それってもしかして、真珠ですか?」
「如何にも」
王城の如き巨大な貝の作り上げた真珠などどうやって運べばいいんだろう、とユカリは不安になる。押して転がる大きさなのだろうか。そもそも転がしても大丈夫なのだろうか。
「いったいどれくらいの大きさなのですか? 運ぶとなると、無理とは言いませんが、少し時間がかかりそうですね」
「なに。案ずることはありません。その美しさに比べれば大きさなど取るに値しません。貴女の背丈よりも小さいくらいですよ、ユカリ。普通の真珠よりは大きいですが」
ずいぶん幅がある。これほど巨大な存在にとっては区別しがたい差だということだろうか。
ユカリは腕を組んで首をひねり、どうすれば見つけられるだろうか、と考える。
「どこか当てはありますか? 最後に見た場所とか」
それは当然海底だろう。聞いたところでどうにもならないことにユカリはやにわに気づく。
「いいえ。ただ、何者かに盗まれたということしか」と貝の王は平然と言う。
「盗まれた!? どうやって!?」
「それが分かっていたならお教えしますよ。ただ、フォーリオン様の御力によって沈没した船に乗っていた者だということだけは間違いないでしょう。その船から現れ、真珠を盗んで立ち去ったのです」
海底を歩いて運んで行ったとでもいうのだろうか。あるいは魔法使いならばそういうことができる者もいるのかもしれない。
そして一人だけ、真珠という言葉を聞いた時からユカリは思い浮かべている者がいた。喪服の貴婦人アギノアだ。アギノアが持っていた真珠も大きかった。真珠商だとも言っていた。それにおそらく愛すべき旅の仲間ユビスを盗んだ疑いもある。
とはいえ、アギノアが魔法使いで盗人だとしても、フォーリオンの宝を盗んだつもりはないだろう。ただ海の底で拾っただけだ。もちろんユカリにはそんなことをこの場で口にするつもりはない。それに、アギノアという当てができたことも黙っておくことにする。変に期待させるのは得策ではないはずだ。
「とにかく地上を当てどなく探すしかないんですね」とユカリは失望した様子でため息とともに吐き出す。
「ご安心なさい」と貝の王は言う。「これを使うといいでしょう」
貝の王の光る口から小さな海流に乗って何かが漂ってくる。艶めかしい光を受けて煌めきながら漂い来たそれはグリュエーの運ぶ空気の中に飛び込んでくる。ユカリは何とか落とすことなく受け取る。
それは真珠でできた剣だった。真珠独特の照りと艶が均一ではなく、刃と鍔、柄でそれぞれ微妙に濃度が違い、しかしその境は曖昧で、生物的な、幾何学的な、えもいわれぬ不均衡を感じる。剣の形をしてはいるが刃は鋭いと言えない。血抜き溝らしき彫刻があるにはあるが、この刃を人体の奥まで突き刺すのは相当の膂力が必要だろう。山刀よりも使いにくそうだ。そして魔導書の気配とは別の、言い知れぬ力をユカリは感じた。
「少し気恥ずかしいですが」といって貝の王は明滅する。「それは私が幼い頃のしっぱ……習作。『三界の結び目』の剣。我が最高傑作である真珠に近づくと刀身が光る魔術を付与しておきました。ご活用ください」
「ありがとうございます。百人力ですね」
ていよく処分しようとしていた物を押し付けられた気がしないでもなかったが、ユカリはにこやかに笑みを浮かべて真珠の刀剣を腰に帯びた。
「では、頼みましたよ。ユカリ」貝の王はユカリの背中を押すような声で優しく言う。「新たな、良き名で呼ばれるような御活躍を祈っています」
「待て」フォーリオンの声で、気持ちよく立ち去ろうとしていたユカリの心が蹴躓く。「貴様が我が宝を取り戻すまで、近海の船は全て人質だ。もしも貴様が逃げ出したなら船を全て沈没させ、シグニカは吾輩の腹の底だ」
ユカリは何となく貝の王の方を振り返り、しかし貝の王から海底の暗闇に目を向けて言う。「無関係な人々を巻き込むのは止めてください」
「無関係ではなかろう。貴様の連れが二人、吾輩の手の内にあるぞ。貴様が我が宝を持ち帰った暁には解放しようぞ」
ユカリは海底の暗闇を睨みつける。
「それって、本当ですか?」
「ああ、貴様の友人は――」
「じゃなくて解放のほうです」
フォーリオンの海が激昂する。「何を!? 吾輩が取り決めを破ると思うてか!」
荒れ狂う海流がグリュエーの風の領域を押し込んでくるが、ユカリはめげずに言い返した。「口約束です」
春を迎えたフォーリオンの海は潮目も感情も変転する。「良かろう! 愚かで卑しき人間と思って情けをかけたが間違いか。お前が望むならば魔法の誓いを行おうぞ」
魔法の誓いという言葉にユカリは聞き覚えがあった。ベルニージュに大まかなところを教えてもらった。たしか魔法使いの契約に利用される魔術だ。
貝の王が助け船を出してくれる。
「いいのですか? ユカリさん。魔法の誓いは契約に使う魔法ですが、その実、世界との約束です。定めた戒めを遵守せねば、定めた罰は決して逃れられない宿命となりますよ?」
ユカリはよく分かった、という風に頷く。「そんなの、戒めと罰次第ですね」
「申してみよ」とフォーリオンは静かな怒りを秘めて言う。
「私が宝の真珠を取り戻すまで、人質もシグニカの人々も全員無傷、誰一人苦しめないこと。それが私が求める戒めです」
「ならば吾輩が貴様に求む戒めは、真珠を取り戻すか、永遠に探し続けるか、だ。逃げることは許さん」
ユカリはしっかりと頷いて応じる。
「それで罰はどうするんです?」
「当然、魔法の誓いといえば魂の譲渡だ」とフォーリオンは平気で言う。「温い罰では意味がない。さあ、誓いを」
海の中から一枚の石板が漂ってきて、グリュエーの中に入ると海底に倒れる。
そこには人間が最初に結んだ契約に使われた魔法の文字で誓いとフォーリオンの署名がなされていた。ユカリもまた拾った石で石板に名を刻みつける。
「それではここに誓え」と貝の王が厳かに言う。「ユカリ、其方はフォーリオンより与えられた使命を成し遂げるその日まで全生命を捧げると誓うか?」
「はい。誓います」とユカリは答える。
貝の王は言う。「そしてフォーリオン。其方はユカリが使命を果たすその時まで全ての人質の安寧を約束するか?」
「ちょっと待ってください」とユカリが慌てた様子で口を挟む。「もう一つ付け加えていいですか?」
少しの沈黙の後、「言うだけ言ってみてください」と貝の王は言う。
「使命を果たした後もずっとです」と言うユカリの言葉が再びフォーリオンの怒りに触れる。
「何だと!? 貴様、海の有様を変えると申すか!? 船を沈めるも陸に雪崩れ込むも我らが有様の一つだ! 人間風情がいい気になるようなら――」
「分かりました。そこまでは言いません」と、ユカリはあっさり翻す。「でも使命が終わった後に腹いせで全てを沈められては話になりません。逆も然りです。私が宝を返した瞬間、宝を盗み去っても良いのですか?」
「下らぬことを。ならばどうする」
「私が死ぬまで、という期限付きではどうですか?」
フォーリオンは長く沈黙する。もしかしたら聞こえないように話しているのかもしれないが、ユカリはただ黙って待つ。そしてとうとうグリシアン大陸北方を治める古強者フォーリオンは口を開く。
「人間の寿命など我が瞬きの内に過ぎる露命に過ぎぬわ。良かろう。それで誓おう」
その言葉の締めくくりと共に、誓いの記された石板が砕け散り、ユカリとフォーリオンの誓約は永遠に宇宙に刻まれた。
すると、それはユカリの気のせいかもしれないが、まるで心の奥底に楔が撃ち込まれたようなそんな気分になった。
次の瞬間、グリュエーの作っていた空気の壁が握り潰されて、ユカリの体は木っ端の如く押し流される。