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「だから、これ以上一緒にいたら、潤の時間を無駄にしてしまう……そう思ったんだよね」
折しも当時、男女の痴情のもつれから事件に発展したというニュースがよく流れていた。巴さんとは、そんなふうに揉めたくなかった。
でも別れたくはなくて。
迷って、ズルズルと時間だけを引き延ばしてしまい──最終的には『勉強に専念したい。別れてほしい』とだけ連絡を入れた。
巴さんの『分かった』という声を最後に、電話番号もメールアドレスもすべて変えた。
勤めていたアルバイトも辞めて、彼の前から消えたのだった。
──若い。青い。でも愛おしい。
そんな私の青春。
別れ際に言った言葉を嘘にしたくなくて、巴さんを忘れようと必死になった。
勉学とアルバイトを頑張って、結果、大企業『SACRA』に入社できたのだ。
恋より仕事。
巴さん以降、誰かにときめくことはなかったが、充実した毎日だった。
いつの間にかぐっと強く握っていた手が汗ばんでいるのに気づき、手を洗おうと思った。
さあぁ、と冷たい水に手を浸せば、水の清らかさが染み渡るようで冷静さが戻ってくる。
「妹の|奈菜佳《ななか》には、私の二の舞になってほしくない」
巴さんの言った通り、菜奈佳も奨学金で大学に通っている。
アルバイトにも励んで家にお金を入れているし、母も元気よく働いている。祖父母たちも健在だ。
私も実家を離れているけれど、仕送りは毎月欠かさずしている。
それでもこのご時世、お金は貯まるより減る方が早い。氷室家に余裕があるとは言いにくい。
「菜奈佳にはもっと、自由に青春してほしい」
口にした瞬間、パッと顔を上げた。
鏡の中の私はいつもの、冷静な表情をしている。
あのときの一方的な別れを後悔していた。
その、せめてもの罪滅ぼし。もとより結婚願望は低いのだ。
「そして──お金のため」
洗面台からすっと手を引く。
ペーパータオルで手を拭うと、気持ちも手もさっぱりした。
そして巴さんに対して、ある疑問が一つ湧いた。それは契約結婚を決める一手というわけではなく、単純な疑問だった。
私は気持ちを整えて、化粧室を後にする。
席に戻ると、巴さんのグラスは空になっていた。
ジャズも今はピアノの曲になっている。
「お待たせしました」
私も残りのカクテルを飲み干してから、彼に向き合った。
「まずは、戻ってきてくれてホッとしたよ」
上品に微笑む姿は、ずるいほど魅力的だ。
「お返事、まだしてませんから」
「じゃあ、決めてくれたのかな。それとも、もう少し時間が欲しい?」
「いえ、今言う方がお互いにスッキリするでしょう。その前に、一つ聞いていいですか?」
巴さんは眼鏡のブリッジを押し上げて、首を縦に振った。
「確かに、私は『元カノ』ですけど……巴さんなら、他にも『元カノ』さんはいたんじゃないですか? 職場が同じだから、私に『契約結婚』を決めたのでしょうか?」
そう、こんなに素敵に歳を重ねた彼なら、他に元カノがいてもおかしくない。
私の問いに、巴さんは静かに深呼吸をしたあと、まっすぐ私を見つめた。
「そうだね、確かに他にも元カノはいる。けど、俺が人生の中で忘れられなかった『元カノ』は、知佳だけだ」
「!」
私は忘れようと必死だったのに、この人はずっと覚えていてくれた。
その事実に、胸が熱くなる。
こくりと喉を鳴らしたあと、そっと口を開いて──
「私は巴さんと──契約結婚します」
「!」
目を見開く潤。
思いのほか、するりと言葉に出来た。
言ってしまった。胸がドキドキする。
こんなこと、法的にも倫理的にも駄目だとわかっている。
結婚をビジネスにしてはならない。
考えるにしても、もっと時間を掛けるべきだ。
そんな気持ち裏腹に、現実問題として私は浅ましくも、お金は欲しい。
それでも、私は──彼となら……と思って返事をした。
ぐっと唇を噛み締めて巴さんを見ると、彼は眼鏡を静かに外し、疲れを癒やすように目頭をほぐしていた。
潤の黒髪がさらりと揺れる。
「と、巴さん?」
「あぁ、実はすごく緊張していて。今、ホッとしたところだ。法務部にいる人間がこんなことを言って、十年ぶりに再会して……引かれないか、すごく心配もしていたんだ」
「そんな。私こそ、お金で結婚を決めたと引かれているんじゃないかと……」
巴さんは手を目元から離して首を横に振った。私を見て「本当にありがとう」「弱みに付け込むようなことをして、すまない」と繰り返した。
潤の裸眼の素顔が十年前と重なって、胸がまたざわついてしまう。
「とりあえず、今日はここまでにしよう。詳しいことは、次の休みにどうかな?」
「はい」
その提案はありがたかった。
色々と聞きたいことはあったが、私も冷静でいられる限界が近かった。
「それまでに、こちらの希望する契約結婚の内容、期間、法律的なことなどをまとめておく。契約結婚でも、君の名誉を汚すことはしないから安心してほしい」
再度頷くと、巴さんは「結婚成約祝いに、あと一杯だけ付き合ってほしい」と言った。
異存がないと伝えると、彼は眼鏡を掛け直しながらバーテンダーに声をかけた。
「カンパリオレンジのモクテルって、できますか?」
「そうですね。カンパリの代わりにトニックウォーターやジンジャーエールで代用して、風合を寄せたものをお作りしましょうか」
さらりと答えるバーテンダー。潤が頷くとバーテンダーが手際よく準備を始める。
「巴さん、なぜカンパリオレンジなんですか?」
眼鏡を掛け直す、潤に尋ねる。
「知佳、柑橘好きだろ? だから選んだ。それと……もう一つは秘密だ。とりあえずさ、昔みたいに『潤』って呼んでくれ。これから知佳は、俺の奥さんになるんだから」
甘く微笑まれて、恥ずかしさのあまり視線を逸らした。
潤を見ないで小さく首を縦に振ると、横で「変わってないな」と囁かれた気がした。
変わってない。
そう言われて、何か胸にチクっとしたものが刺さった。でも、その棘の意味は私によくもわからない。
そんな疑問もすぐに、結婚を決めてしまった高揚感の前には霧散した。
──こうして私は十年ぶりに再会した元カレと、まさかの、契約結婚を結ぶことになるのだった。
蒼乃 月
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コメント
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あおいです🤍 第2話、じんわり胸が熱くなりました……。「俺が人生の中で忘れられなかった元カノは、知佳だけだ」——この台詞、すごく響きました。知佳さんが忘れようと必死だった十年と、潤くんが覚え続けていた十年、その温度差が切なくて。モクテルの柑橘選びも、細かい愛情を感じます。契約結婚という形だけど、お互いを想う余白がこれからどう育つのか、続きが気になります!