テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
⧉▣ FILE_018: 調査 ▣⧉
【BBC Evening News臨時報道】
2002年4月30日
本日未明、イギリス国内で『急性免疫反応による突然死』が相次いで確認され、政府および保健当局はこれを重大な公衆衛生上の事案として正式に調査を開始しました。
保健省の発表によりますと、現在までに確認されている死者数は約200名にのぼり、『いずれも数時間以内に重篤な免疫反応』を起こし、自宅で死亡していたということです。
■ 共通点:不審な手紙
捜査関係者によりますと、死亡した市民のうち少なくとも30名の自宅に、『同一内容の手紙』が事前に届いていたことが判明しました。
問題の文書は、すべて印刷された紙媒体で、筆跡は確認されていません。また、『郵送経路は複数に分散しており、差出人の特定は困難』とされています。
その内容は、以下のようなものでした。
────
このテガミを
“メーデー”までに ツギのヒトへ マワせ
さもなければ
ヒトが シぬ
たくさんのヒト が シ ヌ
アタシは マってる
カミに アう ソノ トキを
アタシは、あなたをミているから
カナラズ、フコウは オトズれる
────
警察当局はこの文書を、いわゆる『を模倣した脅迫文書』と見て捜査を進めています。
■ 手紙に付着していた「粉末」
さらに調査の結果、一部の手紙には肉眼では判別しづらい『粉末状の物質』が付着していたことが確認されました。
初期分析の結果、この物質は麻薬性化合物である可能性が高く──
仮称
『マーシェ・ゼカイン・トランキライザー』
(通称:“ゼカイン”)
と呼ばれています──
■ 未知の病態:致死性自己免疫過剰反応
複数の免疫学者による合同検討の結果、この一連の死因は、“従来の自己免疫疾患やアレルギー反応とは根本的に異なる病態である可能性が高い”とされました。
専門家チームはこの現象を、暫定的に
『致死性自己免疫過剰反応ちしせいじこめんえきかじょうはんのう(Fatal Autoimmune Hyperreaction)』
と呼称しています。
これは、免疫系が何らかの要因によって“異常活性化”し、全身規模で自己組織を無差別に攻撃する状態を指すものです。
『通常、自己免疫反応のみで人が短時間に死亡することは極めて稀』であり、慢性的な経過をたどるのが一般的です。しかし今回の症例では、免疫反応が爆発的に増幅し、数時間以内に多臓器不全へと至るという、医学的にも前例のない経過が確認されています。
■ バイオテロの可能性
こうした医学的に説明不能な免疫反応と、短期間に発生した異常な死者数を受け、政府は本件を単なる公衆衛生上の事故や自然発生的疾患とは断定できないとして、
未知の『バイオテロ事件』の可能性を視野に入れた捜査へと方針を転換しました。
保健当局は現在、
・郵便物を通じた感染
・空気感染
・第三の媒介経路
いずれの可能性も排除せず、調査を進めています。
■ 事態は国外へ
さらに、フランス当局からの連絡により、同一内容の手紙がフランス国内にも送付されていたことが確認されました。
現時点では、イギリスとフランス以外の国への拡散は確認されていませんが、EU各国は警戒レベルを引き上げています。
■ 王室関係者の全員死亡
そして本日午後、事態をさらに深刻化させる情報が入りました。
先日急逝が報じられた、エシュリオン=ケムリス王子に続き──
《ケムリス家の関係者全員が、同様の免疫反応で死亡していたことが確認されました》
王室は現在、詳細を公表していませんが、政府は国家安全保障会議を緊急招集しています。
■ 政府声明
首相官邸は声明で、
「現時点で市民に対する具体的な指示はないが、不審な郵便物には決して触れず、直ちに当局へ通報してほしい」
と呼びかけました。
◈◈◈
「──まずいことになったね、L」
画面越しに、Aはそう言った。
〈ええ。BBCの速報は確認しました。王族全員が死亡。しかもまた“急性免疫反応”が原因〉
「前のアメリカの事件と同じだ。短期間で、違う国で……しかも、相手は王室」
〈“偶然”とは到底思えませんね〉
「不幸の手紙と、付着していた粉末……。麻薬だってニュースでは言ってた」
〈ゼカイン、ですね。麻薬性トランキライザー。仮にそれが直接の原因だとしても──〉
「“免疫異常で死ぬ麻薬”なんて、聞いたことがないよ」
〈そうですね。通常の麻薬は神経系に作用します。免疫系に直接影響を与える構造であれば、それはもう、麻薬ではなく“ウイルス”か、何かでしょうか〉
「……じゃあ、あの“不幸の手紙”は?」
〈あれは、関係ありませんよ〉
即答だった。Lの声色に、微塵のためらいもない。
〈あの手紙は、いわば“目くらまし”です。本筋と無関係な情報をばら撒き、捜査を惑わせるために用意された──カモフラージュ。 実際、あの“手紙”の文面には──“明日までに手紙を渡さなければ、死ぬ”などとありましたが、死の予告”としての機能を果たしていないですし、“文字ひとつで人が死ぬとは思えません”〉
「じゃあ、あの手紙を追っても無意味?」
〈精々、“誰が触れたか”の指紋検証くらいでしょう。実質的な情報価値は、ほぼゼロです〉
「となると……この事件はバイオテロ……ってこと?」
Aは息を呑み、モニターを見つめた。
〈それも断言はできません……。もっとも“あり得そう”なのが、バイオテロ。あくまで“消去法で残った可能性”です。──しかも、アメリカの事件に続いてイギリス。単なる連鎖ではなく、“計画性”がある……〉
Lは淡々とした口調のまま続けた。
〈今のところ、“これはバイオテロだ”と断定できる証拠は、現時点ではどこにも存在しません。──苦し紛れのラベリングに過ぎない〉
Aは眉をひそめた。
「……でも、仮にウイルスだとして……免疫反応なんて、起こるのか?」
〈理屈の上では、あります。ウイルスの中には、免疫機構に異常な“過剰反応”を引き起こすものも存在します。──サイトカインストームのように〉
「でも、皆、死因の内訳が一致しない。急性呼吸不全、循環虚脱、多臓器不全、アナフィラキシー様ショック……『それぞれの身体の弱点を狙い撃ちされたような死に方だ』」
──“免疫系の異常な暴走”。
それを、世間では『致死性自己免疫過剰反応』と呼ばれるようになった。
「病気で死んだ」わけじゃないが、ウイルスに感染した結果でも、外的な毒素でもない。
“自分の免疫”が、“自分自身”を殺した。
これは、ただの感染症じゃない。毒でもない。ましてや『自然な死』でもない。
この現象そのものが、ひとつの“病名のない病気”。
自分の体が、自分を殺す。
それが200人単位で、同時多発的に起きている。世界で、イギリスで、アメリカで、フランスで──
──《有り得ない死》が続いている。
僕らはこれを“人の手で起こされた事件”だと見ている。
でも──その根拠は、どこにも出てこない。
手紙? ゼカイン? 免疫反応?
どれも決定打にはならない。
状況証拠が散らばるだけで、繋がる糸が一本もない。
……何かの呪いか、祟りじゃないか?
そう思いたくなる。
あまりにも説明がつかない死。
医学も科学も法律も、今のところ、この事件には何一つ“意味”を与えられていない。
〈──だからこそ“未知のウイルス”を疑うべきです。現段階で、それ以外の合理的な説明が存在しません〉
Aは黙ったまま、机の上の資料を見つめる。
ただの麻薬粉末──にしては、死因が異様すぎる。
“免疫系を狙い撃ちにできるウイルス”。
そんなものが本当に存在するなら──
「……世界中、どこも安全じゃないってことになる」
〈そうですね。もし空気感染型だった場合、今ごろ世界は取り返しのつかない混乱に陥っているでしょう。一刻も早く、犯人を特定する必要があります……“が”──〉
「……?」
そこでLは言葉を切った。
〈──痕跡が、まったく掴めません〉
「……はあ。情けないな、L。君の仕事だろう?」
Aは冷たく吐き捨てた。
〈……返す言葉もありません〉
「しかし、今回の相手は“王室”。さすがの君でも、直接の潜入捜査は無理か」
〈はい。今このタイミングで“L”として動けば、英国国内だけでなく世界中が動きます。政府中枢が“ウイルスによる暗殺事件”として認識すれば──“パニック”を引き起こす危険がある〉
「でも、警察なら動かせるだろ?捜査名目で調べさせて──」
〈“Lの指示”として動かしたら、なおのこと騒ぎになります。警察関係者はみな、私の名前に敏感です〉
「じゃあ、どうするんだよ、L」
Aは語気を強めて言った。
Lからの返答は、わずかな沈黙を挟んだのちだった。
〈……手元に残された選択肢は、極めて少ないですが、政府ではなく、“民間の立場”で動く余地はあります〉
民間の立場で……?
Lが動かせる民間人……。
「……まさか、“僕”を使う気じゃないだろうな?」
〈──そう思っていただけると助かります〉
Lは、微塵も悪びれた様子もなく、肯定する。
(勘弁してよ……)
〈あなたは“現Lの代理人”であり、何より──ワイミーズハウスに最も近い位置にいる。私にとって、これほど“都合の良い存在”はいません〉
「……はあ。じゃあ僕が王室の死体検案書でも盗んで来いって言うのか?」
〈それは冗談だと信じたいところですが、現場に残された“粉末”の情報が最優先です〉
Aは額を押さえ、椅子に背を預けた。
最悪だ……。なんで僕が……。
〈今、私たちが戦っているのは、“見えない敵”です。名も顔も、武器の正体すら分からない。──私たちが“先に気づいた”という事実こそが、唯一のアドバンテージです〉
──と、いうことで。
Aは、ロンドン郊外にある住宅街の一角で、『とある人』を待っていた。
街路樹の影がアスファルトに落ち、春とは思えぬ冷たい風がジャケットの裾を揺らす。
その手には、逆探知不可能な携帯。画面には『レイ・ペンバー』の名前が光っていた。
「……まさか、こんな形でFBIにお世話になるなんて……」
イギリス国内の調査に、なぜFBIなのか。
理由は明白。
まず、アメリカではつい先日、“免疫反応による死”という異常事態が発生した。そして今回のイギリス王室の死──あまりにも似通っている。
互いに無関係とは考え難く、両国間の合同調査は必然の流れだった。
しかし──
今回のケースでは、「王室」が関わっているという一点が、事態を一気に“非公開領域”へと押し上げた。
感染経路や死因の特定よりも早く、政治的配慮が先行する。王族の死は、単なる個人の死亡では済まされない。それは“国家威信の失墜”であり、“体制そのものへの不信”に直結するからだ。
報道規制、情報統制、外交的な余波……あらゆる方面への配慮が必要とされる中で、捜査は極めて慎重に、そして“密やかに”進められなければならなかった。
大規模な多国間捜査や合同記者会見、捜査チームの派遣──いずれも政治的な波紋を避けられず、かえって混乱を助長しかねない。
イギリス政府としても、国内の不安定化や王室スキャンダルの拡大は、絶対に避けたいところだろう。
そのため、当初は“他国の直接介入を頑なに拒んでいたが”──
状況を動かしたのは──“Lの存在だった”。
Lの説得を受け、イギリス政府は態度を軟化。
最終的に、“FBI捜査官レイ・ペンバー1名に限り、英国入国と非公開での調査活動を黙認する”という、極めて限定的な合意が形成された。
表向きの立場は、あくまで「越境麻薬捜査官による個人調査」。
だが、実際には、イギリス政府・アメリカ政府・Lの三者が微妙な均衡のもとで交わした、きわめて異例の密約。
王室の内部事情を国際的に露見させず、同時に“アメリカ側が保有する高度な薬物解析・バイオ検査技術を利用する”──その合理性と危機意識の一致が、最終的に政治判断を動かしたのである。
(……Lはすごいよ、やっぱり)
尊敬ではない。
今は畏怖に近い。
Lという存在は、国家よりも重く、組織よりも早く、たったひとりで世界を動かす存在。
「……」
──あんなのが僕らの敵じゃなくて、良かった。
……だからといって、味方でもないんだろうけれど──
なんて思っていると、ポケットの中の携帯が、振動した。
Aは小さく首を振り、いつものように表情を整える。
「……はい。Aです」
〈こちらレイ・ペンバー。予定通り、あと五分で到着します〉
落ち着いた男性の声だった。かすかに聞こえるエンジン音が車の中にいることを物語っている。
「わかりました。通り沿いにある赤いポストの前で待ってます。車は──シルバーのセダンでしたよね?」
〈ええ。あなたを見かけたら、こちらから歩いて行きます〉
「……慎重で助かります。では、またあとで」
通話が切れると同時に、Aは携帯をポケットに戻し、街路樹の影に身体を沈めるように立ち位置を変えた。
数分後。
控えめに減速したセダンが、路肩に停まった。無駄な音もなくドアが開き、黒いコートを羽織った男がひとり降りてくる。
鋭い眼差し、整った髪型。無駄な威圧感はなく、それでいて油断の隙も見せない雰囲気。
男──レイ・ペンバーは、迷うことなくAのもとへと歩み寄ってきた。
「あなたがA、ですね?」
言葉と同時に、男は内ポケットからIDホルダーを取り出し、Aの目の前に差し出す。そこにはしっかりと、“FBI”の文字と本人の顔写真。
「……ええ。あなたが、レイさん」
Aはそのバッジに目を通し、すぐに軽く頷いた。
レイはにやりと口元を緩める。
「Lの代理人と聞いていたけれど……ずいぶん若いんですね。てっきり、年上かと。──学生かい?」
「い、いえ。……これでも22ですよ」
Aは苦笑まじりに返す。
「へぇ……こっちはてっきり、ティーンエイジャーかと」
「まさか……」
Aは肩をすくめ、小さく笑った。
「10代で“L”なんて……考えられませんよ。いくら頭が良くても、あの役職は、知性だけで務まるものじゃないですから──」
それから──僕らは車に乗り込み、ウィルトン衛生薬理研究所へ向かう。
そこは、ロンドン郊外に位置する中規模の医薬品研究施設で、毒性検査や薬理試験に関して国内でも高い信頼を得ている組織だった。
今回、“王室関係者の遺体から検出された物質”の一次解析を担当した機関として、LはAを現地へ派遣した。
Aは、レイ・ペンバーの運転する車の助手席に座っていた。
細い指先が膝の上で組まれ、わずかにこわばっている。
「……緊張してる?」
ハンドルを握ったまま、レイが横目で訊ねた。
どこか茶化すようでもあったが、気遣いの色がにじんでいた。
「……ちょっと、だけ」
Aは、気を紛らわせようと小さく息を吐いて、窓の外に視線を逸らした。
「でも、君は……Lの代理なんだよね。だったら、もっと自信を持っていいと思うよ」
自信……。
そう言われてもAの表情は曇ったままだった。
「……堂々と、なんて、そんなふうには……」
言いかけて、言葉を止める。
本当は、何度もそう思おうとしてきた。
“Lの名を背負っているんだから、自分が怖気付いてどうする”と。
けれど──王室の死という一国の根幹を揺るがす事態。未知の毒物。向かう先は、その物質の謎を握る“国家の研究機関”。
──緊張しないわけがない。
「ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、怖いんです。Lに……関わるのが」
ぽつりと漏れた本音に、レイはハンドルを持つ手を一度だけ強く握り直した。
「Lは、君を信じてここに送り出した。……それだけは、間違いないだろ?」
Aは目を伏せたまま、小さく頷いた。
それでも胸の奥の不安が消えることはない。
──Lの信頼すら、どこかで自分には“過ぎたもの”に思えてしまうのだ。
「……それに、“Lは僕たちの味方”だから、大丈夫だよ」
「…………」
レイが、前を向いたまま言った。
気負いも、鼓舞するような強さもなかった。ただ、Lで味方であるとあたりまえのように──
Aは思わず、横顔を盗み見た。
それは、どこまでも真っ直ぐで、迷いのない眼差しだった。
「……どう、なんですかね……」
言葉が喉の奥でつかえる。
Lは自分にとって、どこか遠いものに感じていた。
“味方”。
それがどれほど深い意味を持つか。
信じ、支え、従い、時には命さえ預ける関係。
──自分がそんな立場にいていいのだろうか。
「……………」
余計な思考が遮る中、レイは、ウィンカーを出して研究所の敷地に車を滑り込ませる。
──建物の前に、古びた看板が立っていた。
《WILTON INSTITUTE OF TOXICOLOGY & PHARMACOLOGY》
-ウィルトン衛生薬理研究所-
研究所の受付を通され、白衣を着た中年の研究員が応対に出てきた。
彼の名札には、《Dr. Preston》と記されていた。
「──Lからの依頼については伺っています。ですが、あいにく“本物の粉末”は、すでにこの施設にはありません」
プレストン博士は、どこか歯切れの悪い口調でそう言った。
Aが眉をひそめると、レイが一歩前へ出る。
「では、それはどこに?」
博士は周囲を一度見渡し、わずかに声を落とした。
「……ハーヴェル科学防衛庁に。昨日の午後、政府の判断で移送されました」
その名を聞いた瞬間、Aの表情が僅かに揺らぐ。
ハーヴェル科学防衛庁──英国の戦略科学開発を担う機関。
生物・化学兵器の研究と防衛体制の構築を目的とし、その内部は《国家機密の巣》とも称される。
それはつまり──この粉末は、純粋な犯罪証拠ではなく、『国の問題』として扱われているということだった。
──さっそく、二人は車でハーヴェル科学防衛庁の本部へと向かった。
ハーヴェル科学防衛庁は、鉄柵と高圧電流によって四方を囲まれた厳重な施設だった。
無骨な灰色の建物に続くゲートの前で、Aとレイは車を降ろされ、セキュリティチェックを受けることすら許されないまま、玄関の前で足止めを食らっていた。
「……申し訳ありませんが、こちらは軍管轄の施設です。一般の捜査機関、および個人による立ち入りは一切認められておりません」
軍服姿の職員が事務的に告げる。
レイが、内ポケットから例の認証カードを取り出して掲げた。
「“L”の名の下に、アクセス権を求めています。ロンドン警視庁の要請も重なっている。無視するには、いささか大きな名前じゃないですか?」
だが、返ってきたのは、予想以上に冷たい拒絶だった。
「……失礼ながら、“Lの名は法的権限ではありません”。当庁の判断を覆すものではなく、例外にも当たりません」
職員の声音は丁寧だったが、その言葉ははっきりしていた。
「現時点で開示できる情報はありません。ご退去をお願いします」
Aは、睨むようにその施設を見上げた。
自分の背後に“L”がいるのに──だが、その“名前”さえも通じない現実に、冷たい風が吹き抜けていく。
◈◈◈
レイの車の中。
沈黙を破ったのはAだった。
「……ここまで厳重に扱っているなんて、正直、想像以上でした」
助手席の窓の外、薄曇りの空を見上げながら、声だけが低く漏れる。
「政府は、何かを隠してる──少なくとも、“粉末の出所”や“被害範囲”に関して、国民に明かすつもりはないんでしょうね」
「“国家防衛資産”だもんな」とレイが渋い顔で答える。
「隠蔽って言葉は使いたくないけど……それに近い何かだ」
Aは携帯を取り出し、発信履歴からLの番号を選ぶ。呼び出し音が二度鳴ったところで、いつもの加工音声が応答した。
〈……私です〉
「Aです。報告します」
言葉を整える間も惜しんで、Aは手短に経緯を伝えた。
「ウィルトンでのサンプル閲覧は拒否されました。“本物の粉末”は、既にハーヴェル科学防衛庁に移送済み。昨日の午後、政府の指示です」
〈……はい〉
「ハーヴェルでも拒否されました。“Lの名は法的効力を持たない”とのこと。軍事施設として完全に遮断されています。実物の性質も、詳細な分析も、全て向こうの判断で伏せられていて……正規のルートはもう……塞がれました」
Aは一瞬だけ黙り、苦い吐息を漏らす。
「──政府が、“出所”を意図的に隠してる可能性があると思います。単なるテロではなく、国家関与の可能性すら考えたほうがいいかもしれません」
〈了解しました〉
とLの声。
続けて、わずかに音声が途切れた後、落ち着いた調子で指示が下された。
〈正規ルートが閉ざされたのなら、次は裏です〉
その言葉に、Aは眉をひそめた。
「……裏?」
〈ハーヴェル科学防衛庁の内部記録を、直接確認する必要があります〉
一拍置いて意味を理解し、Aは身を乗り出す。
「まさか──“ハッキング”するつもりじゃないですよね?」
〈“はい”〉
「──正気かよ!?」
思わず声を荒げる。
「あそこは英国防省の直轄機関だ。国家機密の塊だぞ!そんな危険なことできるか!」
助手席でレイがちらりと視線をよこすが、Aは気にも留めず続ける。
「そんなの、もしバレたら……! 捕まるのは僕──あ……」
言いかけたAの視線が、ちらりと助手席のレイへ向かう。
「む、無理だよ、L。レイさんの前で、そんな犯罪まがいのこと……できるわけないだろ」
しかし、電話口のLは一切動じなかった。
〈安心してください。仮にそれが違法行為であっても、FBI捜査官がイギリス国内であなたを拘束することはできません〉
思わず、Aは呟いた。
「そういうことじゃないんだよ……」
制度の話じゃない。
目の前で聞いてる人が“FBI”って肩書きの持ち主で、その人の前で“違法行為”をやらされるという、精神的な圧力。
Aの胃が、きゅっと縮む。
(……ほんと、Lってやつは、どこまで蛮勇なんだ)
〈A──私たちはLです。必要とあらば、法の外も辞さない〉
その言い回しに、Aは唇を噛んだ。Lは怒っているわけでも、焦っているわけでもなかった。冷たく、正確で、恐ろしいほどブレがない。
〈あなたがやらないのであれば──Qに依頼します〉
「っな!?」
その一言で、Aの背筋が一瞬で冷える。
「……待って!」
声が思わず大きくなる。
レイが、そっと視線を逸らす。内容こそ分からないが、重いやり取りが交わされているのは伝わっているはずだ。
Aは唇を強く噛みしめ、言葉を飲み込む。
──Qにやらせる?
そんな危険なことをさせるわけにはいかない。
自分が動けば、Qは巻き込まれずに済む。
そうだ。
Qだけは──彼女だけは──
やるしかない。僕が。
僕の手で──
「……分かったよ。──僕がやる」
電話の向こうで、Lが何かを言いかけて、やめた気配があった。
〈では、一旦ハウスに帰ってもらえますか? ログイン環境は後ほど送ります〉
Aは無言で、携帯の画面を見つめた。
誰も強制していないはずなのに、気づけば道は一本しか残されていなかった。