************
肌寒くとも暖かな日射しを背に、ある場所へ手を合わさせている女性の姿。
その眼前にある小さな突起、その周りには秋桜の花が添えられており、それはまるで小さな墓標。
たがそこに名前は刻まれてはいない。
「小さな……お墓だね」
その穏やかな声に、最初から気付いていたのか、女性はゆっくりと振り返った。
「先生……」
その眼に映るのは、白衣を纏った美しくも穏やかな表情。
絵になる位、スラリとした長身。だが細過ぎるという事は無く、芯の強ささえ感じられるその左肩には、片盲眼の黒猫が指定席の様に居座っていた。
都心の外れにある、ここ如月動物病院の近くの旧校舎、廃校となったその裏には、外れ街を一望出来る裏山があった。
数少ない自然の一部として、廃校同様開拓の予定は無い。
「せめて、見晴らしの良い所にと思って……」
その女性、“杉村 葵”はそう哀愁の表情を目の前の人物、如月動物病院院長“如月 幸人”へと向けた。
幸人は“誰の墓?”とは尋ねない。其所に眠るのは誰であるか知ってる上での配慮だろう。
「すみません。せっかく先生に助けて貰った命を……私のせいで」
葵は嗚咽を絞り出す様に。
「お墓に名前も……まだ、名前も付けてあげられなかったのに!」
激情が止めどなく溢れてくる。あの日の事は悔やんでも悔やみきれない。
それは決して消える事の無い、心の傷。
幸人は何も言わず、墓の前に膝を降ろし、両手を合わせ黙祷していた。
どんな慰めの言葉も、それは只の偽善でしかない。
死んだ者は決して生き返らない。今を生きる者に出来る事は、冥福を祈るのみ。
「……先生は、狂座って聞いた事はありますか?」
暫しの沈黙を破り、葵は右隣で黙祷を続ける幸人に問い掛ける。
「ええ。恨みを代行してくれると云われる都市伝説ですね」
幸人の言葉に偽りは無い。また惚けている訳でも無い。
狂座は近年急速に拡大していった“口さけ女”並の都市伝説として、ネット社会の現在ではかなり有名である。雑誌でも何度も取り上げられる程だ。
誰が知っていてもおかしくない。むしろ知らない方が、世間の情報に疎い事だろう。
「……狂座は都市伝説じゃなかったんです。この子が殺されたあの日、私はどうしても許せなくて……。恨みを晴らしてくれる狂座という都市伝説を、携帯から必死に検索しました。」
葵はあの時の事を、その想いの丈を綴っていく。
幸人はただ黙って、その想いに耳を傾けている。
「いくら検索しても、都市伝説検証としての関連サイトが出てくるだけ。だけど何度も……何度も!」
葵のその時の心情は如何程のものだったのか、その震えた声から伝わってきた。
葵の声が一段と高揚する。
「そして突然……繋がったんです。まるで向こうからやってきたみたいに」
葵はその時の事を、出来うる限り詳細に幸人に話した。
突如現れた狂座にアクセスした事。
名前も分からない三人に、消去を依頼した事。またその証拠まで求めた事。
その後、二度とアクセス出来ず、履歴すら残っていない事。
その経緯に至る全てを。幸人は半信半疑になる事も無く、ただ黙って耳を傾けている。
何故葵がこの様な事を幸人に喋ったのか定かでは無い。ただ関わりがあったのみならず、幸人なら信用に足る何かを感じていたのだろう。
そして今朝方、葵の携帯に届いた三つの画像。
送信者は狂座。だが宛先のアドレスは存在しないので返信も不可能。
届いたその画像には、葵を凌辱し、仔犬を無惨にも殺した三人の、凄絶な遺体の証拠画像だった。
************
「それを見た瞬間、私、自分のした事の重大さに、急に恐くなって……。あれだけ恨みを晴らしたくて……それが叶ったのに、後に残ったのは……」
葵は続く言葉を詰まらせる。
それは後悔? 哀しみ? 虚しさ?
ただ一つだけ分かった事は、葵は決して満足も救われてもいないという事。
憎しみは新たな憎しみを産み、それは果てなく連鎖する。その哀しみの螺旋は決して終わる事は無い。
“それが人のみが生まれ持った業なのだから”
「君は正しい事をした訳じゃない。でも決して間違ってもいない」
仮にあの三人を野放しにしていれば、犠牲となる者は更に拡大し、多くの憎しみは蓄積していくだけだったろう。
殺人を正当化してる訳では無い。ただ誰かが取り除く必要が時にあるという事。憎しみは終わらないが、拡大する事はそこで終わらせる事が出来る。
それは法を超えた処置。
殺人を代行する狂座は間違いなく悪だが、必要悪として確かに。だからこそ狂座は存在している事に。
幸人はゆっくりと立ち上がる。
「また……お墓参りに来させて貰いますね」
「先生……」
最後に葵と墓に一瞥し、幸人は踵を返して其所を跡にした。
「ありがとうございました……」
深々と頭を下げる葵を背に、遠ざかる幸人は右手を軽く上げて応える。
葵は幸人が狂座である事を知るよしも無い。だがその御礼の言葉の意味には、形に出来ない不確かな感謝が込められていたのも、また確か。
“それはどちらなのか?”
もしかしたら、どちらでもいいのかも知れない。
「あの子……立ち直れるかな?」
幸人の左肩で、これまで口を開かなかったジュウベエが、不意に訊ねる様に呟いた。
「立ち直れるさ」
幸人は空を仰ぐ。それと同時にジュウベエも空を見上げた。
「それでも人は生きてきたのだから……」
「それもそうだな……」
見上げた青空は何処までも澄んで青い。
「全く……いつもの事ながら後味悪ぃよな……」
10月の肌寒い日の事。一つの憎しみが終わり、新たな始まりの日の事。
地で蠢く様々な思惑をよそに、それでも空だけは平等に、全ての眼下を澄み見渡していた。
※一の罪状 “終”
~To Be Continued