「それで?詩織ちゃんとのラブラブ生活はどーなんだよ。聞かせろよ~」
定時後の社長室。
社員もほとんど帰宅した時間帯にデスクで決裁書類を確認していたら、健一郎がニヤニヤとした顔で入って来た。
大好物の恋愛トークが目の前にある時の顔だ。
俺が怪訝な顔を向けると、冒頭のセリフを言い放ってきた。
応接用のソファーにドカリと座り、楽しくて仕方ないという表情を隠さない。
「……誰に聞いたの?」
「詩織ちゃんの兄の悠だよ。なんでも、お前が詩織ちゃんのご両親に挨拶して、一緒に住んでるらしいじゃん?ご両親が悠に報告して、悠がこの前会った時に俺に教えてくれたってわけ」
なるほど、そういう経緯かと納得する。
お兄さんに伝わるのはなんの不思議もないし、そのお兄さんと仲の良い健一郎に話が行くのも、まぁ想定の範囲内だろう。
「そんな面白いことになってんだったら言ってくれれば良かったのにさ~」
「面白がられるのが嫌だから言わなかったんだけど」
「2人ともフツーに仕事してるから全然気づかなかったわ。俺の見る目もまだまだだなぁ」
別に健一郎に知られてマズイこともないので、俺は聞かれたことに普通に答える。
俺に対してはいいけど、その調子で彼女には近寄っていくなと釘を刺すのは忘れない。
「ご両親に挨拶したって聞いた時から思ってたけど、マジなんだな。千尋が本気なのなんか初めて見るわ」
「そういうことだから余計な波風立てないでね」
「へいへい。分かってるよ。でもお前の昔の女関係は大丈夫なわけ?」
そう言われて、思わず先週末のパーティーを思い出して顔を顰める。
あのあと瑠美からは電話やメールがきた。
パーティーの時にハッキリもう連絡しない、興味ないと言ったつもりだったが、伝わっていなかったのかとため息が隠せない。
既読スルーしていたら、また電話がかかってきてしつこかったから、詩織ちゃんがいない時に応対した。
彼女がいるからもう遊びはやめると言っても、当たり障りのない断り文句に聞こえるらしく、本気にしてもらえなかった。
「千尋くんはそういうタイプじゃないでしょ?たとえ彼女がいても女の子と遊びたいんじゃないの?無理しない方がいいよ」と言われた。
自分の今までの言動が相手にそう思わせるのだから、頭を抱えたくなった。
「え、もしかしてもう何かあった?」
俺が口ごもったのを見て、健一郎が疑わしげに俺を見る。
決してやましい事があるわけじゃない。
俺は先週末のことをかいつまんで健一郎に話した。
「あーー、まぁその子の言うことも分からんでもないな。可愛い子がいればすぐ口説いてお持ち帰りばっかしてたしな、お前」
「詩織ちゃんに出会ってからは誓ってしてない」
「それは近くにいる俺はなんとなく分かるけど、以前の千尋しか知らない相手にはそうは思えないのかもな。で、結局その子はどーした?」
「面倒だから着信とメッセージ拒否した。どうでもいい相手だから」
「ま、それが妥当だろうな」
拒否すること自体は簡単だ。
ただ、今後同じようなことが何度起きてもおかしくないという状況が憂鬱だった。
それだけ俺がゲーム感覚で口説いて寝た相手が多いということで、完全に身から出た錆なわけだけど。
「ちなみにさ、詩織ちゃんには俺の以前の話はしないでくれる?……その、女関係が派手だったとかそういう話」
「あ~、ごめん、前にチラッと話したかも。それに隣の席の美帆からも聞いてたりするかもな」
「……手遅れか」
「まぁ、詩織ちゃんも詩織ちゃんで過去はあるわけだし、それはお互い様ってことでいいんじゃん?」
珍しく健一郎から励まされ、俺は曖昧に頷く。
実際のところ、一途な彼女の過去を知っているからこそ、余計に自分の以前の行いが酷く感じるのだが、そのことを健一郎に話す必要はないだろう。
「そういえば、千尋は明日から出張だっけ?」
「ああ、うん。2泊3日で大阪」
「取引先への訪問だよな?あそこセキュリティが心配だから、行った時ちょっと確認しといてくれよ」
「それ、社員からも懸念事項として報告上がってたから俺も把握してる。必要に応じて釘刺しとく」
「頼むわ。てか、出張なら今日は早く帰った方がいいんじゃない?愛しの詩織ちゃんが寂しがってるかもよ~?」
真面目な話をしていたかと思ったら、最後は野次馬根性丸出しのニヤニヤ顔だ。
残念ながら健一郎の言うことはもっもとだ。
「そうだね」と素っ気なく返事しながら残務を片付けて早めに帰宅することにした。
翌日は会社には寄らず朝から大阪へ直行だ。
家を出る時間はいつもより遅めだったから、彼女を見送る形となった。
「じゃあ先に家出ますね。出張、気をつけて行ってきてください」
「うん、ありがとう。明後日はそんなに夜遅くならずに帰れると思うから」
「分かりました」
普段は俺の方が先に出社することが多い。
だから彼女を見送るというのはなんだか新鮮だ。
「いってきます」
ドアノブに手をかけ、外へ出て行こうとした彼女は、一瞬振り返って笑顔を見せた。
その笑顔を数日見られないのかと思うと急に名残惜しくなる。
俺は彼女の腕を引き、何も言わずに胸の中に抱き寄せた。
「えっ、千尋さん?」
突然腕の中に囲い込まれた彼女は驚いた声で俺を見上げる。
上向いたその顔に俺はすかさず唇を寄せた。
「んっ……!」
唐突に口を塞がれた彼女は、微かにうめくような声を漏らす。
可愛い声に止められなくなりそうだ。
出社前だからあんまりすると彼女も困るだろう。
適度なところで自分を抑え、顔を離す。
キスの後に視線が重なると、なぜか彼女はクスッと小さく笑った。
「ふふっ、口紅がついちゃってますよ?」
出社前できちんとメイクをした彼女の口紅が移ってしまったようだ。
鏡がないから見えないが、今の自分の唇には、ピンク色が乗っていることだろう。
指摘されて俺が拭おうとしたところ、それより早く彼女の手が伸びてきて、親指でそっと唇に触れて拭き取ってくれた。
キスとはまた違う、細い指の柔らかな感触を唇で感じる。
彼女のそんな言動が朝からたまらなく可愛くて離したくなくなった。
またギュッと抱きしめてしまう。
「千尋さん、私、そろそろ行かないと。定時に間に合わなくなっちゃいます」
「うん、今日はいい。社長権限で許してあげる」
「そんなことで社長権限使わないでください。もったいないです」
「俺にとっては重要だからいい。あー、俺、詩織ちゃんいなくて今夜寝れるかな。なんか心配になってきた」
「もう、冗談ばっかり言ってないで離してください。千尋さんもそろそろ出掛ける準備した方がいいんじゃないですか?」
……別に冗談なんかじゃなく、至って本音なんだけどなぁ。
そう言われて、渋々と彼女を腕の中から解放する。
彼女は腕時計を見て、「出張気をつけて行ってきてくださいね」と改めて言いながら笑顔を俺に向けると今度こそ家をあとにした。
たったの2泊3日だというのに、なんだか果てしなく長く感じてしまうのは気のせいだろうか。
2泊3日の大阪への出張は、大きなトラブルもなく、予定通りに進んだ。
もともと入っていたアポをこなし、隙間時間はカフェやホテルのラウンジでパソコンを開きメールを処理していく。
関西にいる間に会っておきたかった仕事関係者とも一通り顔通しができたし、一定の収穫はあったと言えるだろう。
すべての予定が3日目の夕方頃には終わったので、詩織ちゃんと会社用に大阪土産を買ってから新幹線に乗り込んだ。
このぶんだと夜19時半頃には東京に着く見込みだ。
グリーン席のシートに身を沈めながら、少し仮眠を取ろうと俺は目を瞑る。
この出張の間久しぶりに一人で寝たが、あまりよく眠れなかった。
正確には寝れたは寝れたのだが、ぐっすり眠れなかったというのが正しい。
どうやら俺の体はすっかり詩織ちゃんに支配されているらしく、彼女を無意識に求めてしまっているらしい。
……ホント、身も心もすっかり詩織ちゃんに骨抜きにされてるな。
それをこの離れている数日でより強く実感した。
こんなに一人の女の子を好きになるのも、何の疑いもなく心の底から信頼できるのも、自分にとっては奇跡的だと思う。
つい数ヶ月前までは考えられなかったことだった。
ブーブーブーブー
目を瞑って少し微睡んできたところで、ふいにポケットに入っていたスマホのバイブの振動を感じ、俺は目を開く。
しばらく電源を切っておけば良かったなと後悔先立たずだ。
仕事かもしれないのでスマホを取り出し、相手を確認する。
着信元は母だった。
確かこの前話した時、疲れ果てていて体調も思わしくなかったこともあって、すげなく電話を切ってしまったことを思い出す。
前回がそんなんだったから、きっとまたうるさいだろうなぁと思うと重苦しい嘆息が洩れた。
いずれにしても、今ここは新幹線の中だから電話には出られない。
電話が切れたタイミングで「移動中だからあとで折り返す」とメッセージを入れた。
東京に着いたのは、見込み通り19時半過ぎだった。
早く帰って彼女を抱きしめたい。
はやる気持ちを落ち着け、先に面倒なことを済ませてしまおうと、俺は母に折り返しの電話をかける。
母は待ち構えていたかのようにすぐに電話に出た。
「もしもし。ごめん、移動中だったから出られなかったけど、何かあった?」
「ちぃちゃーん、今日はもぅお仕事は終わったの~?」
「ああ、うん。そうだけど?」
「それなら今からうちのお店に来てぇ?久しぶりにちぃちゃんに会いたいの!」
突然誘われて、「はい行きます」という気分でもない。
特に今日は早く家に帰りたい。
「あー、忙しいし、また今度ね?」
「忙しいっていつもそればっかりじゃなぁい!それに今日はもう仕事終わったんでしょぉ?この前だってわたしがまだ話してるのに電話切るしぃ」
「……あの日は体調悪くて。ごめんね」
「悪いって思うんなら今から来てよぉ。たった一人の息子なんだから、わたしに優しくしてくれてもいいでしょぉ?」
「……また別の日に、でどう?」
「そんなこと言って、またその時は忙しいって言うクセにぃ。だからダメ。今日来て。来ないんだったら、アポなしで会社に押しかけるからねぇ?」
どうやら今日は引くつもりはないらしい。
この感じだと冗談抜きで会社に押しかけてくるだろう。
そうなれば彼女にこの母の存在を知られてしまうことになる。
……こんな面倒な母がいるなんて知られたくないんだよなぁ。俺でさえ手に余る母なのに、詩織ちゃんが彼女だと知れたら、きっと彼女にも迷惑かけるだろうし。
そんな事態はなんとしても避けたくて、俺は渋々今から母の経営するスナックに行くことを了承する。
こうなったら、パッと行って、パッと帰るしかない。
顔を見せに行けば母も満足して、しばらくは大人しくしてるだろう。
自宅へ向かっていた足を、急遽母の店の方へ切り替えて、電車に乗り込んだ。
母の店へ向かう途中、彼女にも「少し帰るのが遅くなる」と一応メッセージを入れておく。
すぐに「分かりました。気をつけて」と返信が来た。
本当は今すぐにでも帰りたいのに、なかなか上手くいかないものだ。
母の店に着いたのは、夜20時頃だった。
ここへは何度か来たことはあるが、かなり久しぶりだった。
店のドアを開けると、「ちぃちゃーん!」と甲高い声に迎えられる。
カウンター席が中心で、ソファー席が2つくらいあるこじんまりとした店だ。
全体的に赤と黒を基調とした薄暗い店内には、数人の男性客とスタッフらしき女の子がいる。
母の声で全員が俺の方を振り向いた。
「え~あの方、奈緒子《なおこ》ママの知り合いなんですかぁ?」
「そうよぉ。私の自慢のむ・す・こ♪」
「うそ~!奈緒子ママの息子さん!?超イケメンーーー!!」
「ダメよぉ?今日はちぃちゃん、わたしに会いに来てくれたんだからぁ」
キャッキャとはしゃぐスタッフの女の子をいなしながら、母が近づいてきて、他の人に見せつけるように俺の腕にしがみついた。
強い香水の匂いが鼻にまとわりつく。
最近はほのかに薫る彼女の香りに慣れてしまったから、余計にきつく感じた。
「そうしていると息子というより恋人みたいじゃないか。さすがママだね。焼けるなぁ」
「うふふ。そうでしょぉ?」
男性客におだてられ、母はすっかり気分を良くしているようだ。
なんとなく、母はこうして俺を人に見せびらかし、こんな息子のいる私すごいでしょ?と優越感に浸りたかったんじゃないかと感じる。
隣に並んでも恋人に見えるという言葉は、若見えを自負する母にとって一番自尊心をくすぐるセリフに違いない。
「ちぃちゃん、こっち座って。なに飲むぅ?」
「……じゃあ生ビール」
「まゆみちゃん、生ビールお願いねぇ~」
カウンター席に案内され座るも、母もくっつくように隣に一緒に座って離れない。
飲み物も他の女の子に用意させている。
がっちりホールドされ、逃がさないと言わんばかりだ。
「で、急に呼び出されたわけだけど、今日は何か話でもあるの?」
提供された生ビールに口をつけながら、さっそく俺は話を切り出した。
のんびり世間話を楽しむつもりはない。
「もぉ、ちぃちゃんはいっつも性急なんだからぁ。もっと会話を楽しむってことを覚えた方がいいわよ~」
「うん、そのうちね。それで何か用があったんでしょ?」
「う~ん、用っていうか、ただちぃちゃんに会いたかっただけよぉ?だってちぃちゃんの様子がここ最近おかしかったんだもん」
「別におかしくないと思うけど?」
「そんなことないわよぉ。いつもはわたしの味方でいてくれたのに、最近はわたしの恋愛について諫めてきたり、否定したりするじゃなぁい?そんなこと今までなかったのにぃ」
言われたことには心当たりが大いにある。
母を見て育ち恋愛にも女性も期待を持つことができなかったから、今までは母の話を聞いても何も思わなかった。
適当に相槌を打ち、肯定してあげていた。
俺自身も似たようなもんだったというのもある。
それが彼女と出会って、世の中母みたいな女性ばかりじゃないと実感して一変した。
そうなると母の話は呆れるし、癇に障るしで、今までみたいに聞いていられなくなったのだ。
「まぁそれはそうかもね」
「え~なんでぇ?やっぱり何かあったのぉ?」
「彼女できたから。今までみたいにテキトーじゃなく本気のね。真剣な相手ができたら、母さんの話聞いてるとなんだかなぁって思うんだよ。母さんに幸せになって欲しいっていう俺なりの思いやりのつもりだけど?」
「ちぃちゃんがそんなこと言うなんてぇ、まだ秋なのに明日は雪でも降るんじゃないかしらぁ!」
うふふと笑う母は、俺の言うことをあまりまともに取り合っていないようだ。
きっと今までの俺の言動が母をそうさせるのだろう。
俺の発する言葉の受け取り方がこの前の女の子と同じだなと思う。
……今まで関係のあった女の子は着信拒否やブロックするだけだから面倒でも後腐れはないけど、母はそういうわけにいかないから厄介なんだよなぁ。一応これでも親だし。
より一層、この母の存在を重く感じる。
こんなふうに感じてしまう俺は冷たいんだろうか。
「じゃ、顔見せたから俺はもう帰るよ。出張帰りで疲れてもいるし」
「えぇ~?来たばっかりじゃなぁい!」
生ビールを飲み干し、俺は立ち上がる。
ちゃんと顔を見せたからこれで充分だろう。
「ホントに帰っちゃうのぉ?またいつでも来てねぇ?」
母はまた腕に絡みついてくる。
邪険にするわけにもいかず、そのまま入り口まで行き、ようやく解放してもらうことができた。
どっと疲れを感じながら、俺は帰路を急ぐ。
一刻も早く彼女に会いたかった。
自宅に着いて、彼女に玄関で「おかえりなさい」と笑顔で迎えられた時、心の底から安らぎを感じた。
スーツケースをほっぽり出し、真っ先にその場で彼女をきつく抱きしめる。
彼女の匂いと柔らかさに包まれ、「ああ、帰ってきたな」と言葉にできない満たされた気持ちになる。
俺はただただそれを噛み締めた。