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出張から帰ってきた千尋さんからは、艶やかな薔薇の香りがした。


玄関先で出迎えて抱きしめられた時、それはすぐに分かった。


ふわりと香るどころか、割と強く鼻をかすめ、あきらかに女性ものの香水だと感じるくらいだった。


この前の香りとはまた違う。


以前がベリー系の甘ずっぱい感じだとすれば、今回は色っぽい華やかな感じだ。


せっかく忘れようとしていたのに、また女性モノの香水の匂いを感じて胸がザワザワする。



……違う女性?出張帰りに会ってたの?



社長としてのスケジュールは知っている。


出張後に仕事の予定は入っていなかったはずだ。


当初は早めに帰れると言っていたのに、夜になって遅くなるというメッセージが来た。


それはこの香水の女性とプライベートで会っていたからだろうか。


なんとも言えない不安が胸をよぎる。



「………遅かったですけど、どこか行っていたんですか?」


詮索するつもりはない。


だけど、そんな探るような言葉が思わず口をついて出た。


「ああ、うん、ちょっとね。あ、それよりコレお土産。関西で人気のチーズケーキらしいんだけど、食べる?」



……はぐらかされた……??



千尋さんがこんなふうに曖昧に答えて、話題を変えるのは珍しい気がする。


私には聞かれたくない、突っ込まれたくないということなんだろう。



「……はい、ぜひ食べたいです。わざわざお土産ありがとうございます……!」



なんにも気づかなかったふりを決め込み、私は笑顔を浮かべる。


千尋さんは「ちょっと待ってて。切り分けてくるから」と言って、チュッと私の頬にキスを落とすと、そのままキッチンに行ってしまった。


その態度はいつも通りだ。


いつも通り優しいし、いつも通り彼からの愛情も感じる。


なのに、こんなに不安になるのはなんでだろう。



本人から直接聞いたことはないけど、千尋さんの女性関係が派手だったということは知っている。


実際に身のこなしや言動から女性慣れしているんだなと感じることも度々ある。


初対面だったパリの時もそう感じた。



……千尋さんは私のことを好きと言ってくれるけど、それは私の好きと同じなのかな……?


ふいにそんな疑問が頭をよぎった。


だって、ベリーや薔薇の香水が似合うような魅力的な女性が常に周囲にいる人だ。



そんな人がわざわざこんな圧倒的に恋愛経験不足な私を本当に好きになったりするだろか。


……ううん、考えるのはよそう。たとえそうだとしても私が千尋さんを好きなことに変わりはないんだから。



兄を好きだった時に比べると、いかに今の自分が恵まれている状況かと痛感する。


好きな人の近くにいれて、

好きな人に「好き」と伝えることができて、

好きな人からも「好き」と言ってもらえる。


こんな幸せなことはない。


これ以上を求めるのは贅沢だ。


たとえその好きの気持ちに差があっても、好きな人が他の女性と会っていたとしても。


不安を勝手に感じているのは私なんだから、私が気にしなければいいだけのことだ。



「お待たせ~」


「わぁ、美味しそうですね」


キッチンから戻ってきた千尋さんは、お皿にふんわりと分厚いチーズケーキを運んできた。


見た目だけでふわふわな食感が想像できる。


私たちはコーヒーとともにその濃厚で味わい深いチーズケーキを堪能した。


千尋さんからはもう薔薇の香りはしない。


するのはチーズケーキの甘い香りだけ。


食べながら千尋さんと話しているうちに、さっきまで感じていた不安も和らいでいく。


そっと不安を胸の中にしまい込んで鍵をかけた頃には、私はもうすっかりいつも通りになっていた。




出張後の千尋さんは、いつにも増して忙しくなった。


新作ゲームの企画が固まり、制作がいよいよ本格化してきたそうだ。


千尋さんだけでなく、開発部門の責任者である健ちゃんもバタバタしている。



「……というわけだから、悪いけど今週入ってる会食はリスケできないか先方と調整してもらえないかな?」


「承知しました。調整してみます」


「あと、この資料の整理とファイリングも頼める?」


「はい、もちろんです」



社長室に呼び出され、今は千尋さんと2人きり。


デスクに座っている千尋さんの前に私は立ち、仕事の指示を受ける。


疲労が滲む顔で、千尋さんは申し訳なさそうに私に仕事を頼んだ。


最近は夜遅くまで仕事をしているようで、家に帰ってくるのも遅い。


ベッドの中でギュッと抱きしめるくらいしかできず、私の方こそ役に立てずで申し訳ない気持ちだ。


ひと通り業務上のやり取りを社長と秘書として済ませると、一瞬沈黙が訪れた。


なんとなく千尋さんの顔を見たら、彼も私を見上げていて、視線が絡み合った。



その瞬間、千尋さんの表情は社長のものから、プライベートなものにフッと様変わりする。


「最近、仕事ばっかりで家に帰るのも遅くてごめんね?」


「大丈夫です。私のことは気にしないでください」


「こんな仕事ばっかりの男は嫌だ、とか思ってない?」


「思ってないです。……すごいなって尊敬してます」



そう本音を言うと、千尋さんは嬉しそうに目を細めた。


同時にちょっと悪戯っぽい色が瞳に宿る。



「ああ、そういえば、詩織ちゃんはコレどう思う?」



千尋さんは手元の資料を指さして、意見を求めるように問いかける。


資料がよく見えなくて何を聞かれているのか分からず、私は一歩デスクに近づいてそれを覗き込もうとした。


すると急に千尋さんの手が伸びてきて、後頭部に回され、強引に引き寄せられる。


気づけば千尋さんと口づけをしていた。


唇をペロリと舐められて、反射的に口を開いてしまう。


すぐに舌が忍び込み、舌を絡めとられてしまった。


「んぅっ……」



その濃厚なキスに、ここが会社だということを一瞬忘れてしまいそうになる。


体感的にはものすごく長く感じたキスだけど、おそらく時間にしたらそれほど長くはない。


唇が離れた時、アイスクリームを食べ終えた子供のように千尋さんが自分の唇をぺろりと舌で舐めたのが、なんだかものすごく色っぽくて恥ずかしくなった。



「ここ会社です、瀬戸社長………!」


「誰もいないし、たまにはいいでしょ?頑張ってる俺にご褒美だよ。さぁ、エネルギーもチャージしたし、もうひと踏ん張り頑張ろうかな」



慌てる私とは対照的に、千尋さんはぐっと伸びをして気合を入れると、また社長の顔に切り替わった。


器用にスイッチを入れ替えられる千尋さんが羨ましい。


動揺を押し隠しながら、私は社長室を退室して自分の席に戻った。



「あれ?詩織ちゃん、何か顔赤くない?熱でもあるの?」


隣の席の美帆さんに心配そうに顔を覗き込まれ、ますます恥ずかしくなる。


まさか社長室でキスしたからですとは言えず、曖昧に笑うしかない。


その日は仕事をしながら、社長室が視界に入る度にふとさっきのキスを思い出してなんだかソワソワしてしまった。


お願いだから会社ではやめてくださいと頼み込もうと心に決めた私だった。




翌日の夜も、千尋さんは遅くまで仕事だ。


定時で帰ってきた私は、一人で夜ごはんを済ませ、リビングで読書をしていた。


夜21時を過ぎた頃、玄関の扉に鍵が差し込まれ、ガチャリという音がした。


もっと遅くなるのかと思っていたのに、今日は早かったんだなと思い、お出迎えしようと玄関に向かう。


「おかえりなさ………」


扉が開いて声をかけたけど、相手を見て途中で言葉が詰まってしまった。


相手も驚いたように目を見開いている。


入ってきたのは、千尋さんではなかった。


艶やかな雰囲気の美女だった。


色っぽく華やかな薔薇の香りが漂ってくる。



……あ、この香り。この前千尋さんから感じたのと同じだ。



目の前の美女は、ツヤやかな黒髪が印象的な色気のある女性だった。


たぶん私より、いや、千尋さんよりも年上だろう。


その堂々たる佇まいからは経験豊富そうな感じがする。


「あらぁ?ここは、ちぃちゃんの家だと思うんだけどぉ?」


その女性は、甘く可愛らしい話し方で私に問いかけながら首を傾げた。


千尋さんのことを「ちぃちゃん」と呼んでいて、とても親しそうだ。


同性と接することに苦手意識がある私は、この状況をどうしたらいいのか分からず、ただ固まってしまった。



「もしかして、あなたがちぃちゃんの彼女かしらぁ?ふぅん、彼女ねぇ~」



女性は見定めるように上から下まで私を見る。


その視線にうっすら敵意を感じて居心地が悪くてしょうがない。



「……あの、千尋さんは不在なんですけど……」



このままずっと黙っているわけにもいかず、私はとりあえず事実を口にした。


女性は「そうでしょうねぇ」とサラリと流し、千尋さんよりも意識は私に向いているようだ。


絶えず刺すような視線を全身に感じる。



「あなた、わたしのことは聞いてるのぉ?ちぃちゃんとは、と~っても深い関係なんだけどぉ。合鍵持ってるくらいにねぇ」


「…………いえ、聞いていません」


「ふぅん。な~んだ、彼女って言っても所詮その程度ってことねぇ」


「………」



女性は楽しそうにクスクス笑う。


この女性は誰なんだろう、千尋さんとどういう関係なんだろう。


そんな疑問が湧いてくるけど、聞かされていないということは、私には知られたくないんだと思う。


出張後に会っていたのはおそらくこの女性だ。


あの時も話すのを躊躇うように誤魔化されたのは記憶に新しい。


「ねぇ、あなた、ちぃちゃんがモテるのは知ってるわよねぇ?だってあんなにカッコいいものねぇ。さすがわたしのちぃちゃんだもの」


「はい……」


「だから今までは、いっつも女の子に囲まれてたのよぉ?モテる男の宿命よねぇ?」


「はい……」


「それが、特定の彼女ができたって言うからビックリよぉ!ねぇ、あなたはそんなちぃちゃんをあなた一人で満足させてあげられるのぉ?」


「それは………」



何も言えなかった。


それはずっと私も感じていたことだから。



「ふふっ、いいのよぉ?そんなの無理でしょうから。だから、ちぃちゃんが他の女の子に目移りしちゃっても怒らないであげてねぇ?だって心惹かれちゃう時は自分でも止められないんだもん!」


「………」


「わたしもね、ちぃちゃんの気持ちがすご~くよく分かるのぉ。わたし自身も同じで、彼氏がいても、魅力的な他の男性に誘われるとつい惹かれちゃうから。恋愛ってそーいうものでしょう?」



私が大人しく聞いているから気を良くしたのか、そのあとも女性は甘くゆったりとした口調で、千尋さんのことを語る。



色々と言われたが、つまり女性の言葉を要約すると「千尋さんは一人の女性で縛れるような人じゃないし、一人の女性で満足できるはずがない。だから自由にさせてあげてね」ということだろう。



女性が話すたびに薔薇の香りが鼻をかすめ、その香りがなんだか首にまとわりつくようで、とても息苦しかった。



「あらぁ?ちょっと話しすぎちゃったかしらぁ?ちぃちゃんに会えなかったのは残念だけど、あなたとお話できて良かったわぁ。それじゃあねぇ?」



玄関先で話していたのは、ほんの数分だろう。


だけど体感的には数時間にも感じるような時間だった。


女性は帰って行ったというのに、玄関先にはまだあの薔薇の香りが残っている。


そのことがなんだかとても不快で、私は思わずシュッシュと消臭剤を吹き掛けた。




一人になると女性の言葉が頭の中をグルグルと駆け巡る。


読みかけの本を開いてみるも、内容は全然頭に入ってこなかった。

涙溢れて、恋開く。

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