テラーノベル
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陽の光がログハウスの窓から差し込み
木の壁に淡く影を落としていた。
室内に満ちる木々の香りと
削り立てのまだ新しい空気。
そこに佇むレーファの表情は
憧れにも似た柔らかな光を帯びていた。
彼女はしばし視線を彷徨わせたのち
ぽつりと呟くように言葉を零した。
「⋯⋯いいなぁ⋯⋯羨ましい、かも」
その言葉は誰に向けたでもなく
けれど確かにエルネストの耳に届いた。
隣に立つ彼は
その言葉の意味を
正確に受け取った訳では
なかったかもしれない。
けれど、返答に迷いはなかった。
「なら、お前も⋯⋯ここ、居るか?」
言葉に温度も棘もない。
ただ、ごく自然な提案として
エルネストはレーファにそう告げた。
レーファはぱちりと瞬きし
唇に手を添えながら
戸惑いを隠せずに呟いた。
「え⋯⋯?いいの?
えと、エルネスト⋯⋯さん⋯⋯」
その声音には、心からの驚きと
まだうまく言葉にならない喜びが
混じっていた。
けれど──
そのやりとりを
目の端で見守っていた時也の眉が
ほんの僅かに引き攣った。
(んん?おやおや、どうしましょうか⋯⋯)
内心
頭を抱えたくなるような思考が駆け巡る。
(他意は、ないのでしょうが⋯⋯
昨日出会ったばかりの、うら若き女性が
男性と、二人きりの空間に⋯⋯)
笑顔を保ちつつも
その頬には微かに苦笑が滲んでいた。
何か言わねばと思いながらも
強く否定するのも違う。
年若い二人にとって
それが〝特別〟なのかさえ
分かっていないはず。
(⋯⋯でも、レーファさんは十五歳。
エルネストさんは十九歳。
うーん⋯⋯
これは保護者として、悩みますね⋯⋯)
時也は静かに息を整えると
ふたりの間に一歩近付いた。
「レーファさん、エルネストさん。
おふたりの仲が深まっているのは
見ていて嬉しいことです」
まずは、肯定から。
そして
少しだけ声の調子を和らげて続ける。
「ですが、昨日お渡ししたお部屋も
それぞれに意味があってのことです。
レーファさんには
ひとりの空間で
ゆっくりと落ち着ける場所が必要ですし⋯⋯
エルネストさんにも
彼自身の〝棲み処〟として
この小屋を贈ったのです」
レーファは
はっとしたように自分の足元を見つめ
肩を小さく縮めた。
「⋯⋯あ、そっか⋯⋯
ごめんなさい、時也さん⋯⋯」
彼女の声は恥じらいと
自己嫌悪が混ざっていた。
だが、その反応にこそ
彼女が少しずつ〝他人との距離感〟を
理解しようとしている証があった。
時也は首を横に振り、優しく微笑んだ。
「謝る必要はありませんよ。
レーファさんが悪いわけではないんです。
ただ、今はまだ〝共に居る〟という事が
どういう事か解らなくても仕方ありません。
僕たちは皆
少しずつ学んでいけばいいんですから」
言葉を選び、柔らかく。
「今夜も
それぞれのお部屋でお休みくださいね。
もちろん、おふたりで話したければ
リビングでも庭でも
好きなだけお話しして構いませんよ」
エルネストは黙ったまま
床をじっと見つめていた。
その横顔には
拗ねるような色はなかった。
ただ
何かを受け止める静けさがあった。
「⋯⋯わかった」
彼が短くそう答えた時
レーファはその横顔を見て
ふっと微笑んだ。
そして
自分の胸に手を当てて、小さく頷いた。
「うん⋯⋯
わたし、自分の部屋⋯⋯ 大事にする。
時也さんが用意してくれた
〝わたしの場所〟だから」
その言葉に、時也は心から安堵し
彼女の頭にそっと手を伸ばした。
「ええ。それで良いのです」
春の光が、木の壁に斜めの影を描く。
揺れる葉音が
小さな決意を包み込むように
優しく響いていた。
「では⋯⋯今度は
レーファさんとのお約束を叶える番ですね」
柔らかな声でそう言いながら
時也は自らの髪にそっと指先を添えた。
その仕草だけで
何が始まるのかを、レーファは察する。
約束──〝髪を整えてくれる〟という
ただそれだけの言葉が
少女の胸にどれほど深く沁みていたか。
彼はゆっくりと椅子を持ち上げ
ログハウスの外へと運び出す。
木漏れ日の差し込む場所を選ぶと
そこに椅子を置き、背凭れに手をかける。
すぐに、家の中から足音が聞こえた。
小さな影が現れる。
「⋯⋯青龍」
手に持っていたのは
銀の鋏、コーム、霧吹き
水を張った陶器の小鉢
そして手入れの行き届いた獣毛のブラシ。
まるで古の理容師が使うような
優美な道具ばかりだ。
「ありがとうございます、青龍。
アリアさんの紅茶のおかわりも
注いでいただけますか?
貴方もそろそろ
お茶を飲みながら寛いでいてください」
時也の言葉に、幼子の姿の式神は一礼し
涼やかな声で応じた。
「お気遣い、痛み入ります。
⋯⋯では、お言葉に甘えて
庭の席を拝借いたします」
レーファは促されるままに
木製の椅子に腰を下ろした。
足をぶらぶらと揺らしながら
彼女はまるで子供のように無邪気に笑う。
「⋯⋯うれしい⋯⋯!
ほんとに、わたしの髪を⋯⋯」
時也は優しく微笑み
ケープを肩にふわりとかけると
後ろへとまわる。
彼の動きには一切の無駄がない。
椅子の背に置かれた彼女の髪をそっと撫で
毛先を指先で確かめると
軽く霧を吹きかけてから鋏を手に取った。
チリ⋯⋯と静かに鳴る刃の音が
庭に小さく響いた。
桜の木の枝が風に揺れ、花弁がひとひら
レーファの膝の上に落ちる。
彼女は目を閉じたまま
笑みを浮かべていた。
その頬には
どこか安心しきったような柔らかさがあった
髪を掬うたび、鋏が軽やかに動く。
伸びすぎた前髪を
額のラインに沿うように整え
耳元の毛を優しく流す。
無理に形をつけるのではなく
彼女の自然な髪質と癖を活かしながら
どこまでも丁寧に。
それはまるで──
少女の人生そのものを
優しく包み込むような所作だった。
その光景を
少し離れた席でアリアと青龍が眺めていた。
アリアの膝には
白き長毛のティアナが丸くなり
目を細めてうたた寝している。
青龍は湯気の立つ玉露を口元へ運びながら
ふと目を細めた。
「⋯⋯さすが、時也様。
実に穏やかな手つきでございますな」
そう呟いたその声に
時也は微かに笑みを返す。
「髪は、感情を記憶すると言いますからね。
扱う手にも、心を籠めないと」
最後の一束を揃え、襟足を整えると
木製の獣毛ブラシで全体を梳かす。
小鳥の羽根を撫でるように優しく、静かに。
「⋯⋯はい。おしまいです」
その言葉に
レーファはそっと目を開けた。
頬を紅に染めながら
両手で自分の髪を触れる。
「⋯⋯すごい⋯⋯!
ふわってしてる⋯⋯風みたい⋯⋯」
風に揺れる花のように
彼女の髪は軽やかに揺れ
柔らかに頬を撫でていった。
エルネストは少し離れたシートで
その様子を静かに眺めていた。
何を思うでもなく
ただ──
風に包まれたような空気を見つめていた。
目の前で起きているのは──
どこまでも優しい
〝人と人との繋がり〟のひと欠片だった。
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