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陽の光がなおも柔らかく
裏庭の芝に金の網目を編む頃。
椅子に座っていたレーファの髪を
時也が整え終えた、その直後だった。
「おい」
低く、少し掠れた声が背後から届いた。
「俺のも、ついでに切ってくれよ」
のそりと姿を現したのは
居住棟の玄関口から出てきた男──
ソーレンだった。
寝癖の残る髪を手で梳きながら
すっかり
煙草に火を灯す気満々といった面持ちで
無造作な歩幅で近づいてくる。
「おや、ソーレンさん。
レイチェルさんのご様子は、いかがですか?」
時也が穏やかな声で問うと
ソーレンは肩を竦めて笑った。
「お前の握り飯で腹が膨れたら
また寝やがった。
だが、顔色もいい ⋯⋯もう大丈夫そうだ。
だから俺は暇でな」
カチリ。
金属の響きが静寂を斬った。
その音に続いて、ふっと火が灯り
次の瞬間──
──カシャンッ!
火をつけ終えたライターを
ソーレンが独特の癖で
派手に閉じたその音が──
裏庭の空気を
まるで雷鳴のように打ち震わせた。
バチン、と電撃を受けたように反応したのは
エルネストとレーファだった。
二人とも
まるで反射のように
肩を大きく跳ねさせたかと思うと──
「────っ!」
言葉を挟む間もなく
痩せた背丈のエルネストと
小柄なレーファの身体が同時に動いた。
衝動的に
時也の背中へ向けて
突き飛ばすように飛び込んでくる。
それは体当たりのようでありながら
どこか懇願にも似た動きだった。
その細い腕が時也の背を掴んだ瞬間──
読心術の能力を通して
彼の胸奥に
荒れ狂う痛みの奔流が突き刺さった。
怒声。怒号。嘲笑。
叩きつけられる鉄のような怒り。
火の匂い。
焼け爛れる皮膚の悲鳴。
その全てが、ただの記憶ではない。
生々しい、まだ終わらぬ悪夢だった。
(⋯⋯これは⋯⋯まさか)
眉を寄せた時也は
震えるレーファの細い手首に手を添えると
その袖口をそっと引き上げた。
その瞬間──
「ごめんなさい
ごめんなさい
ごめんなさいっ⋯⋯!
もう近寄らない、わたし、パパ……!」
虚ろな瞳のまま呟いたレーファの声は
あまりにも痛々しかった。
彼女は、今ここにいない誰かに向かって
命乞いをしていた。
彼女の腕には
言葉を失うほどの傷跡が刻まれていた。
それはもはや
〝傷〟という表現では 追いつかない。
皮膚の下層まで抉られた痕は
瘢痕となり
重なり合って盛り上がっている。
皮膚が治る隙すら与えられぬまま
何度も、何度も
痛みが塗り重ねられたのだ。
その場の空気が、音を立てて凍りついた。
青龍も、アリアも
言葉を失ったまま、目を伏せる。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
沈黙の中
ソーレンが紫煙を燻らせながら
視線を落とした。
目に入ったその腕の痕に、彼の表情が翳る。
「⋯⋯⋯⋯っ」
口を結んだまま
視線を逸らすように顔を背けたソーレンは
手元の煙草を咥えたまま
ひどくゆっくりと地面に落とした。
乾いた音が鳴り
足元に転がったそれを
躊躇いもなく靴の底で押し潰す。
踏み潰す音だけが、静寂を割いた。
時也は次に、無言のまま
エルネストの上着の裾に指をかけた。
彼は抵抗しなかった。
ただ、黙って目を伏せる。
布地の下から現れた肌には
想像を超える光景があった。
炎の先で何度もなぞられたのだろう
無数の火傷痕。
日常に転がる物
ライターの先端や煙草の火を
いたずらに押し付けられたのだ。
いや、恐らくはそれだけでは無い──
〝拷問〟という言葉を用いても
尚足りない。
それは単なる暴力ではない。
意図的に
長く、痛みを引き延ばす手法だった。
「⋯⋯酷い、ですね⋯⋯」
時也の声は、どこまでも静かだった。
けれど、その内側では
堪え難い怒りと悔しさが渦を巻いていた。
「なんと、酷なことを⋯⋯」
青龍が低く、厳かに呟く。
「大丈夫⋯⋯もう大丈夫ですよ。
ここには⋯⋯
そんなことを、貴方たちにする者など
いません⋯⋯
だから、安心してください⋯⋯」
時也は優しく、けれど力強く言った。
(これも⋯⋯
不死鳥に魂を呪われた因果なのか⋯⋯)
どうして、こんなにも
尊厳が穢されなければならないのか。
たった十五の少女と、十九の少年に。
人の心があれば
こんな痕を残すことはできないはずだ。
時也はそっと、レーファの頭を撫でた。
怯えに固まる肩を優しく抱くように
彼女の背中へと手を回す。
陽光は
相変わらず美しく降り注いでいるというのに
その日、裏庭に流れた静寂は
あまりにも、深く、重かった。
時也の眼差しが静かに沈んだ。
青龍が顔を伏せたまま拳を握り締め
アリアでさえも
指先に乗せたティーカップを
そっと受け皿に戻した。
冷ややかに沈黙が場を包む。
そんな中
ソーレンは無遠慮な口調で
だが明らかに感情を押し殺しながら
ぼそりと吐いた。
「はぁ⋯⋯そのガキの腹の火傷
ブランド・マーク、だな。
しかも〝オイル・トーチャー〟ってやつだ」
その言葉に、誰もが微かに身じろぎした。
「⋯⋯油を垂らして、火を点けるやり方。
焼けた鉄じゃ出ねぇ〝うねり〟が残る。
皮膚が火に飲まれて
蠢いたように溶けるんだ。
それで、所有者の〝印〟にする。
こいつは、この街のマフィアが
昔からやってる手口だ。
人間を〝物〟として扱うあの連中のな」
時也は黙って、頷くことすらできなかった。
彼の精神には、すでにエルネストの深奥──
いや、魂に刻まれた
焼印の記憶が突き刺さっていた。
焦げた油の匂い。
膚を這う灼熱。
火が跳ね、油が爆ぜる音。
それは炎ではなく、毒牙だった。
皮膚表面だけを焼くのではない。
皮膚の下を這い回り
肉を溶かし、神経を灼き
血管を爆ぜさせる。
呻き声を上げれば
その口には血の滲んだ布がねじ込まれた。
声すら、痛みと共に奪われる。
動けば骨が砕かれる。
逃げれば爪が剥がされる。
だから──
ただ、ただ、喉を焼くような絶叫を
心に飲み込んだまま
己の腹を走る〝火の記号〟を
冷めた眼差しで見つめるしかなかった。
それが
エルネストにとっての〝日常〟だった。
「⋯⋯よく生きていたな」
ソーレンが呟いた。
「大したもんだ」
だが、賛辞のように聞こえたその声に
エルネストは微動だにしない。
ただ、木製の椅子に腰掛け、俯いたまま
風が触れるだけで痛みを忘れた顔を崩さない。
「レーファさんには
印はありませんでしたね」
時也が言うと
ソーレンは小さく鼻を鳴らした。
「さっき〝パパ〟って言ってたろ。親だよ」
その言葉に、レーファは小さく肩を竦めた。
そして──小さな口を開いた。
「パパは⋯⋯私が大嫌いだったの。
⋯⋯私のせいで、ママが死んだから⋯⋯。
だから⋯⋯」
声が細く掠れ、次第に震えていく。
そしてその瞬間
時也の頭にまたしても
鮮烈な〝記憶の奔流〟が声として流れ込んだ。
父親が咳き込み、肌が黒く潰れていく。
目の血管が破れ
涙のように赤が流れ落ちる。
血を吐きながら床を転がり
肺が破れ、喉が潰れる──
身体中の穴という穴から
血と膿とが吹き出すように漏れ
やがて動かなくなるまで
喘ぎ、這い、泣き叫んでいた。
「⋯⋯炭疽菌ですね」
時也の唇から、低く重たい言葉が落ちた。
静かに──
だが確かに、アリアの眼が細められた。
青龍は目を閉じて、ただ小さく首を振った。
その死に様はあまりにも惨い。
けれど
誰もが黙して同情の声を挙げなかった。
誰一人として
〝やりすぎだ〟とは言えなかった。
少女のか細い声が
凍てつくような朝の光の中に消えていく。
「私、殺すつもりなんて⋯⋯なかったの。
でも⋯⋯あの日、叩かれて、蹴られて⋯⋯
もう、イヤだったの。
パパが、全部、いなくなればいいって
思っちゃって⋯⋯。
気付いたら、家中がカビだらけになってて⋯⋯
パパの顔が、変な色してて⋯⋯」
その声に宿ったのは、罪ではない。
後悔でも、哀しみでもない。
──恐怖だった。
自分の中に眠る〝異形〟への
根源的な恐怖。
彼女は、泣かなかった。
謝りもしなかった。
ただ怯え、ただ震え、ただ黙ったまま
己の中の魔女を呪っていた。
時也はゆっくりと、二人を見回した。
焼き印を刻まれた青年と。
菌で父を殺した少女と。
「⋯⋯大丈夫ですよ。
貴方たちはもう、誰の〝所有物〟でもない。
ここでは、誰もあなた方を傷つけません」
言葉を尽くす必要はなかった。
ただ、それだけでよかった。
時也の手が
そっとレーファの頭に置かれる。
その温もりに、少女はようやく──
わずかに、目を伏せた。
「おい。ガキ⋯⋯」
不機嫌を隠す気もなく
低く押し殺したような声が響いた。
場の空気が瞬時に張り詰める中
時也の声がその切っ先を和らげた。
「ソーレンさん。
彼はエルネストさんです。
そして、彼女は──レーファさん」
静かに名を呼ぶ声は、叱責ではなく
〝制止〟だった。
それでもソーレンは舌打ち混じりに
頭をガリガリと掻く。
「⋯⋯ちっ、ったく。
名前で呼べってのかよ。
堅苦しいにも程があるぜ。
⋯⋯エルネスト。
お前、どうやってそのマフィアの連中から
逃げ切った?
まさかとは思うが⋯⋯
この辺に痕跡残してねぇだろうな?」
その問いに
エルネストは黙ったまま一度
目線を落とす。
そして、呟くように──
冷ややかな声で答えた。
「⋯⋯見張りが薄い間に、虫に喰わせた。
百足は皮膚を裂いて体内に入り込むし
蜘蛛は神経を麻痺させる毒を──」
「やめろ、もういい。詳細は言うな⋯⋯!」
ソーレンの顔が苦々しく歪んだ。
唇の端を引き攣らせながら、顔を背ける。
「⋯⋯吐くわ、マジで。
⋯⋯まぁ、潰したのは下っ端だけだろ。
上はまだ、健在してやがる」
その言葉に、時也の瞳がふと細められた。
柔らかな光を宿したはずの瞳が
一瞬で研ぎ澄まされた刃に変わる。
その表情に
ソーレンは苦笑めいた嘆息をこぼした。
(⋯⋯ああ、こりゃ完全にキレてんな。
見た目はいつもの穏やか店主なのに
内心じゃもう殺意の波動が沸騰してやがる)
だからこそ、ソーレンは言葉を変える。
冗談じみた軽口の仮面を被りながら
その奥にある意志を感じ取って。
「なぁ、時也──」
「ソーレンさん。お暇でしたよね?」
言葉を被せた時也の声は
柔らかく、けれど妙にきっぱりと響いていた
「買い物に、付き合ってくださいませんか?
マットレスを新調しようと思いまして。
一人では少々──手に余りますので」
その語尾に含まれた〝意味〟を
ソーレンは即座に読み取った。
その瞳の奥には〝狩りの光〟が灯っていた。
「──ああ。いいぜ?
ちょうど暇してたしな」
口元に皮肉げな笑みを引っかけて
ソーレンは片手をポケットに突っ込みながら
頷いた。
「お二人の新しい生活のために
色々と買ってきます。
青龍、アリアさんたちのこと
お願いいたしますね?」
「御意⋯⋯〝ご武運を〟」
青龍が静かに一礼し
ティアナが一瞬だけ耳をピクリと動かす。
その場を去る背中に
アリアの視線がふと重なった。
時也の背は、静かで穏やかだ。
だがその奥に──
確かな〝烈火〟が灯っているのを
誰もが理解していた。
そして、その火が向かう先はひとつ。
己が居場所を奪い
焼き印を刻んだ〝罪〟の根元──
それを、桜の店主は決して見逃さない。