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玄関を開けた瞬間、空気が変わった。
埃と油と、男の汗と煙草のにおい。
肌にまとわりつくような湿気。誰のものとも知れない靴。
全部が「現実」だった。
「ただいま」なんて、もちろん言わない。
家の中は静かだった。父も晃司も、まだ帰っていないらしい。
一歩ずつ、音を立てないように廊下を進む。
息を止める癖は、帰った途端に戻っていた。
日下部の家では、そんな必要なかったのに。
部屋にたどり着いた瞬間、足が止まった。
──ベッドが、ない。
布団も、毛布も、何もかも、なくなっていた。
代わりに、部屋の隅に無造作に置かれた段ボール。
中には、学校の制服、教科書、壊れかけたスマホ、使い捨ての歯ブラシ。
まるで、「捨てられる人間の荷物」だった。
(戻ってきた、だけなのに)
喉が焼けるように痛んだ。
声を出せば、泣くしかなくなる。
だから、黙っていた。
──ガチャリ。
玄関の扉が開く音。
靴音が重なる。重く、威圧的に。
父と、晃司が、戻ってきた。
「おい、あのクズ、帰ってきてんのか?」
晃司の声だった。怒ってるわけでもない。
ただ、面白がっているだけの声。
「逃げてたんだろ、どこ行ってたんだよ、あいつ」
返事がなければ、探しに来る。
それは遥が一番よく知っている。
──ドン。
部屋の戸が蹴り開けられた。
歪んだ笑みの晃司が、ドアの隙間から顔を出す。
「あ、いた。マジで帰ってきたんだ。へぇ。意外と律儀じゃん?」
「……っ」
遥は反射的に後ずさった。
足元には、倒れかけた段ボール。背中には、壁。
「言ったよな? “逃げたら、倍返し”って」
晃司の声が、壁の内側に染み込むように低くなる。
「で──“どこ行ってたんだよ”? なあ、教えてよ」
何も言えなかった。
言えば、終わる。何を言っても、殴られる。
でも、黙っていても──
──バチンッ。
頬に鋭い熱が走る。
立っていた身体が、音もなく傾いて、崩れ落ちた。
「で、どっち? 逃げたことを怒ってるのか、オレに黙って出てったことを怒ってんのか、どっち?」
晃司の足が、遥の腹をゆっくりと踏みつける。
「“飼い主に黙って家出すんな”って、そういうこと?」
嗤うような声。
遥は、目を閉じるしかなかった。
戻ってきた。地獄に。
そのとき、スマホが震えた。
ポケットの中の振動が、やけに現実的だった。
見なくても、わかる。
──日下部からだった。
(……助けて、なんて思ってない)
でも、通知ひとつで泣きそうになる自分に、心底吐き気がした。
(終わったんだ、あそこは。たった一週間で)
目を開けると、晃司の笑顔があった。
その奥に、父の足音が近づいてきていた。
逃げ場なんて、どこにもない。
「優しさ」も、「暴力」も、等しく自分を壊していく。
それが、“生きてる”ってことだった。