テラーノベル
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「……で、こいつが帰ってきたって?」
父の声が、扉の向こうから聞こえた。 深く低い声。喉に酒の澱が絡まっているような濁った音。
晃司が、わざとらしく笑って言う。
「うん。ちゃんとご帰宅なさってたよ。な? 父さん、褒めてあげなきゃ」
遥は、床にうずくまったまま動かなかった。
頬はじんじんと熱く、腹には重たい痛みが残っていた。
指の震えが止まらない。目の奥がひどく熱い。
でも泣くな。泣いたら、もっと終わる。
──ドン。
今度は、部屋の壁が震えた。
廊下の奥から聞こえた音だった。
父が、何かを蹴ったのだろう。
「“逃げた”んだよな、コイツ」
「さあ、詳しい場所までは知らないけど? ただ、のうのうと戻ってきたのは確か」
晃司の言い方には、悪意も、怒りもなかった。
ただ、面白がってるだけ。
まるで、壊れた玩具の動作確認をしているみたいに。
──足音が、こちらへ向かってくる。
逃げる場所なんて、ない。
部屋の戸は開いたまま。ベッドもない。
そして遥は、立てない。
父の姿が、視界の端に現れる。
髪は乱れ、目の奥は赤い。
何よりも、その手に持っているベルトが──現実だった。
「“親に黙って出ていく奴”が、子どもヅラして帰ってくるんじゃねえよ」
その言葉と同時に、ベルトの先が宙を走った。
ピシャッという音が、肉の音に変わって響く。
遥は、肩をすくめることすらできなかった。
ただ、首を守るようにうずくまり、音を受け入れた。
二発、三発。
背中、腰、腕、どこに当たるかは関係ない。
当たった箇所が痛むだけ。ただそれだけの単純な“現象”。
「一週間、どこで何してた?」
父の問いかけは、尋問ではなかった。
答えを求めてるわけじゃない。ただ、殴る理由を確認しているだけ。
「男のとこか? え?」
ビシッ。
腰のあたりに鋭い衝撃。
骨が軋んだ。息が止まる。
「“女のところ行った”って言ってたヤツもいたなあ。玲央菜だったか? あいつ、そんなに弟に甘かったか?」
晃司が笑った。
遥は、目を閉じた。
名前を出されるのが、いちばん効くことを、あいつらは知ってる。
「まあ、どこでもいいよ」
晃司の声が、耳元で囁いた。
「でも──逃げたやつには、ちゃんと“おかえりの儀式”ってのがあるだろ」
それが、次の蹴りだった。
肩を強く蹴られ、体が横に転がる。
段ボールが倒れ、スマホが床に滑った。
──また、震えた。
音は消してあったはずなのに。
バイブの振動が、部屋に響いた。
「誰だよ、こんな時間に」
晃司がしゃがみこみ、スマホを拾った。
画面を覗く。ニヤ、と笑う。
「……へぇ、日下部。こいつが今、一番怖い人?」
遥の顔が強張った。
見ていたわけじゃない。
でも、その言葉を聞いた瞬間、心臓が凍った。
「“おまえの味方ヅラしてるヤツ”が、いちばんえぐいことやってくんだよな。知ってるよ、オレ」
晃司の指が、スマホの画面をなぞった。
誰かに返信しようとしている。
「やめろ!」
遥は、初めて声を出した。
叫んだわけじゃない。
でも、かすれた、息を吐くような声だった。
晃司が、面白がったように首を傾げた。
「お、やっと声出たじゃん」
──バシッ!
再び、父のベルトが振り下ろされた。
頬に、唇に、熱い裂け目が走る。
血の味がした。
それでも遥は、唇をかみしめていた。
泣かなかった。泣いてしまえば、もう立てない気がした。
(あそこにも地獄はあった)
(でも、ここは“慣れた地獄”だ)
(……だから、まだ耐えられる。いや──耐えるしか、ない)
スマホは取り上げられたまま。
身を守る術もない。
ただ、瞼を閉じ、鼓膜を塞いで、嵐が過ぎるのを待つ。
けれどその嵐は、
遥が「ここに戻ってきた」という事実を、“忘れさせない”ためのものだった。
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