テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
110
177
ゆうき あきや
835
第22話:保護辞退届〜決意の提出と、無慈悲なる書類の山〜
手の中にある一枚の紙。
それは、風が吹けば飛んでいきそうなほど薄く、軽い。
『生活保護辞退届』
たったそれだけの文字が印字された紙切れだが、俺にとっては、これまでの四十年の人生すべてを覆すほどの、とてつもない重みを持っていた。
「……よし」
アパートの玄関に置かれた姿見の前で、リスナーから送られてきた黒の就活スーツの襟を正す。
大福食品からの企業案件(限界みそラーメンのPR)が決まり、向こう数ヶ月の収入が完全に保証された翌日。俺はついに、この「無菌室」から自らの足で歩き出す決意を固めていた。
市役所一階、生活支援課。
整理券を引き、いつものように一番奥の面談ブースへと向かう。
アクリル板の向こう側には、今日も変わらず、パリッとしたスーツに身を包んだ鉄面皮のケースワーカー・鈴木さんがパソコンのキーボードを叩いていた。
「おはようございます。……今日は、定期面談の日ではありませんが」
鈴木さんはタイピングの手を止め、怪訝そうな目で俺を見上げた。
俺は無言のままパイプ椅子に腰を下ろし、内ポケットから丁寧に折りたたんだ『生活保護辞退届』を取り出し、ゆっくりとアクリル板の隙間から差し出した。
「これ、提出しに来ました」
鈴木さんの視線が、その紙に落ちる。
「……生活保護、辞退届。本人の意思により、保護を辞退する……」
鈴木さんはその文字を静かに読み上げ、一度だけ、瞬きをした。
俺は膝の上で両手を強く握りしめ、自分自身の四十年の人生にケリをつけるための、用意してきた「エモい台詞」を口にし始めた。
「鈴木さん。俺、四十年間、ずっと社会から逃げてきました。働くのが怖くて、ずっとこのセーフティネットの底にへばりついて生きてきました。……でも、もう逃げません」
少しだけ、声に震えを乗せる。我ながら完璧な発声だ。
「俺に『夢を追うなら自分の金でやれ』って言ってくれて、ありがとうございました。あのド正論パンチがなかったら、俺は今でも、税金にタダ乗りしながらネットで喚いてるだけの粗大ゴミでした。俺、立派な納税者になりますから……ッ!」
俺は立ち上がり、深く、深く頭を下げた。
ブース内に、俺の不器用な決意表明が響き渡る。
(さあ、鈴木さん。さすがのアンタも、このダメ人間が立ち直った姿を見たら、少しは感動して涙ぐむんじゃないか……?)
数秒の沈黙。
俺は頭を下げたまま、彼女からの「よく頑張りましたね」という温かい言葉を待った。
しかし。
俺の耳に届いたのは、感動の言葉ではなく、**「ドサッ」**という、とてつもなく重たい何かが机に置かれる音だった。
「え?」
顔を上げると、そこには、いつもの冷徹な「鉄面皮」を一切崩していない鈴木さんがいた。
そして彼女の手元には、分厚いパンフレットと、文字がビッシリと書かれた書類の束が「三つの山」になってそびえ立っていた。
「はい、辞退届、確かに受理いたしました」
鈴木さんは、まるで「可燃ゴミの出し方」を説明するような、完全にフラットな声で言った。
「え、あ、はい。受理……それだけ、ですか?」
「感動しているところ申し訳ありませんが、感傷に浸るのはまだ早いです。生活保護を抜けるということは、各種行政手続きをすべて『一般の国民』として自分で行うということです」
鈴木さんは、積み上げられた書類をボールペンでカチカチと叩いた。
「まず、国民健康保険への加入手続き。次に、国民年金の第1号被保険者への種別変更。そして、個人事業主としての『開業届』と『青色申告承認申請書』。これらを持って、今日はこのまま『保険年金課』と『市民税課』、そして管轄の『税務署』を回っていただきます」
「…………は?」
俺の脳みそが、急激な情報の濁流に処理落ちを起こした。
「あ、言い忘れていましたが」
鈴木さんは、トドメを刺すようにスッと眼鏡の位置を押し上げた。
「今年のYouTube収益と企業案件のギャラは、すべて来年の『住民税』と『所得税』、そして『国民健康保険料』の計算対象になります。概算で〇〇万円ほどの恐ろしい請求が来春に届くはずですので、絶対に無駄遣いせず、納税用の口座に避けておいてくださいね」
「えっ……ちょ、待って……金額、えっ?」
俺は白目を剥きそうになった。
感動のお別れシーンが一転、この世の終わりのような「税金と社会保険料の取り立て予告」に早変わりしてしまったのだ。
「さあ、急いでください。市役所の窓口は十七時で閉まりますし、税務署はここから歩いて二十分かかりますよ。立派な納税者になるのでしょう?」
ニコリと、完璧な公務員スマイルを見せる鈴木さん。
俺の涙は、完全に砂漠のように干からびていた。
代わりに、冷や汗が滝のように噴き出してきた。
「あああああああァァァ!! わかんねえ! 書類の書き方が一つもわかんねえよぉぉ!! 専門用語ばっかりじゃねえか!! ジェミニィィィ!! 助けてくれジェミニィィィ!!!」
俺は悲鳴を上げながら、渡された大量の書類をひったくるように抱え、市役所の廊下を猛ダッシュで駆け出した。
「廊下は走らないでください! あと、開業届の職業欄に『魔王』って書かないでくださいね!!」
背後から追いかけてくる鈴木さんの呆れ声を背に受けて、四十歳の新米個人事業主は、資本主義の恐ろしさに涙を流しながら、年金課の窓口へと突撃していくのだった。
コメント
1件
第22話、めっちゃ笑ったわww 感動の別れシーンかと思いきや、まさかの税金&書類ラッシュで現実を叩きつけられる展開が最高すぎる。鈴木さんの「開業届の職業欄に『魔王』って書かないで」には声出た。主人公の「ジェミニィィィ!!」って叫びも含めて、行政の壁に打ちのめされる姿に妙に共感しちゃったよ。続きも楽しみにしてる!