テラーノベル
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階段の踊り場。あの「生きててほしい」という言葉が、頭の奥にこびりついていた。
何かが、少しだけ緩んだ気がした。
でも──だからこそ、遥は立ち上がった。
「……戻る」
小さな声で言った。
日下部は何も言わなかった。ただ、わずかに眉を寄せた。
「行かないと。……約束あるから」
遥はいつものように笑おうとした。
でも、口角はうまく上がらなかった。
「“現実”が待ってるからさ」
それだけ言って、踊り場をあとにする。
日下部は追ってこなかった。──追ってこられたら、きっと泣いていた。
その夜。
また、蓮司の部屋。
室内は静かで、香水と煙草と洗いたてのシーツの匂いが入り混じっている。
遥はシャツを脱ぎながら、無表情だった。
蓮司はベッドの上で、腕を組んでその様子を見ていた。
目は笑っていない。
「……あれ? 今日、ちょっと遅かったね」
何気ない口調。
だが、それが遥の心を鋭くえぐる。
「階段で、日下部と何話してたの?」
「……別に。何も」
「そっか。……あいつ、ほんと律儀だよね。壊れてるおまえ見ても、ちゃんと“我慢”してるんだ」
蓮司は笑う。
そして、遥の身体を引き寄せた。
「俺は──我慢できないけど」
唇が触れる。
身体が、微かに震える。
──反応してしまう。
拒絶したいのに、どこかが感じてしまう。
この感覚こそが、遥の「現実」だった。
「ほら、また……声、出た」
蓮司の指先が、喉元をなぞる。
「俺のこと、嫌いじゃないんでしょ?」
遥は答えられない。
目を閉じた。
全部、嘘にしなければ保てない。
でも、すべてを嘘にするには、あまりにも身体が“正直すぎた”。
「やっぱ、おまえ、かわいいよ。あっちじゃ黙ってるくせにさ。──ここでは、ちゃんと感じるじゃん」
蓮司が囁く。
吐息が、耳元で熱く、残酷に。
遥は、自分を見下ろしている目を見上げないようにした。
その代わり、脳裏に日下部の姿が浮かぶ。
(──見ないで。
でも、どこかで、見てて)
そんな願いが、口にも出せずに胸の奥で溶けていく。
身体が反応するたび、遥は一つずつ「自分」を否定していった。
──汚い。
──偽物。
──演技すら貫けない。
でも、日下部の言った言葉が、頭の奥でまだくすぶっている。
「……生きててほしい」
あれが“嘘じゃなければいいのに”と、思ってしまった。
それが、いちばんの罪だと思った。
だから、また蓮司に抱かれる。
壊れていく方へ、進む。
日下部に見つからないように、ちゃんと壊れていく。
──信じられないような世界で、
信じてしまいそうになる自分を、殺すために。
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