力は、埃っぽい田舎道をフェラーリで走り抜け、ようやく実家の前に辿り着いた
懐かしい古びた一軒家を暫く力はじっと眺めた、八年前に出て行った時の記憶の中の姿とほとんど変わっていない、あの時から一度も力はここには戻ってこなかった
木造の外壁は風雨に晒されて色褪せ、ところどころペンキが剥がれているが、どこか懐かしい温もりを湛えている
庭には、園芸好きな父が丹精込めて育てた金柑の木が茂り、夏の陽光に照らされて小さな新芽がキラキラと輝いていた
その周囲には丁寧に耕された小さな畑が広がり、ネギの緑が土から顔を覗かせ、苗を綺麗に這わせている支柱からは赤いトマトが顔を出していた
力は自分が幼い頃、家庭菜園に力を入れている父と一緒に野菜を育てた事を思い出した
だが、今はその記憶にさえ怒りを感じた
ガラガラガラと玄関の引き戸を勢いよく開け、力はドカドカと家の中に入った
田舎の家は何処も鍵をしていない、力は「ただいま」も言わず八年ぶりの実家に乗り込んで来た
靴を脱ぐのももどかしく、畳の廊下を大股で進む、リビングの戸を開けると、そこには力の父『健一』がいた
背中を少し丸めて台所の小さな流し台の前でコーヒーを淹れる準備をしている
白髪交じりの髪は、かつて力が見た頃よりもてっぺんはかなり薄くなっている、そこに力は八年の歳月を感じた
父はきっとこの台所の窓からフェラーリが家の前に停車するのを見ていたのだろう
息子が帰ってきたのに振り向きもせず、背中で拒絶している
「お前が結婚式の当日に式を取りやめた時、沙羅ちゃんが泣き崩れても誰も責めはしなかっただろう。だが沙羅ちゃんは本当に立派だった!取り乱すことなく、結婚式に来た来賓客に深々とお辞儀をして、式は取りやめになったと告げた。そして、結婚式の料理を各自土産に包ませたんだ! 心の大きな、素晴らしい女性だ! 今はどこぞのアホと結婚しないで本当に良かったと思っているよ」
健一の言葉はまるでナイフのように力の胸に突き刺さった、力は、沙羅のウエディングドレス姿を想像した、見る事の無かった彼女の晴れ姿、自分もタキシードを着てその横に立ちたかった
だが力はその場にいなかった、力自身も人生で一度あるかないかの最大のチャンスだった、力は結婚より世界一の音楽会社の契約というチャンスを掴み、韓国へと飛んだのだった
沙羅を一人・・・式場に残して・・・
健一はコーヒーポットを手に持ったまま、話を続けた
「せめて慰謝料を払わせてくれと、後日私は詫びに行ったよ、でも沙羅ちゃんの両親からは、これ以上娘に関わらないでくれと一筆書かされた。まるで私が犯罪者だ! それからこんな小さな町の噂に耐えかねたのか、沙羅ちゃんの両親は彼女を残して隣の市に引っ越して行った」
力は言葉を失い、ただ立ち尽くしていた、父の言葉は八年間の空白を埋めるかの様に、容赦なく彼を追い詰めた
健一はテーブルの上に置かれたコーヒーカップを手に取ってゆっくりと椅子に腰を下ろした、その動作はまるで老いた身体に鞭を打つようだった
「私は沙羅ちゃんのお腹がどんどん大きくなっていくのを、遠くからただ見守るしかなかった、沙羅ちゃんは誰とも結婚していない!彼女の店がオープンしても、私は今だに顔を出せないままだ、自分の孫すら抱かせてもらえず!」
健一の声は、抑えきれぬ感情でかすかに震えた
「私はあの子がよちよち歩きから、大きくなるまで、町のいたるところで遠くからそっと見ているだけだった!一度もおじいちゃんだよと名乗れないまま、スーパーの陳列棚に隠れて、車の中から、小学校の運動会にはひっそりとグラウンドからあの子を探した、何年・・・何組かもわからないあの子を探して、探して・・・」
健一の目には涙が滲んでいた、しかし彼はそれをぐっと堪え、力を見つめた
「結婚式の日に電話で帰ってこないなら、もう二度とこの家の敷居はまたがせないと言ったはずだ」
力は父の言葉に胸を締め付けられた、たった数時間前に自分に娘がいた衝撃を味わったせいで、八年間父との連絡を絶ち、疎遠だったことすら忘れていた・・・
しかし健一の次の言葉は、さらに力を打ちのめした
「ファンみたいにお前の初めての東京ドームでのコンサートに行ったよ!力! ああ、60歳過ぎたこの老体に鞭打って、会場に並び、若い女の子達に混ざって入るのがどれだけ大変かお前にはわかるか! 警備員に懇願したよ! お前の父親だって! 息子に合わせてくれとな! 自分の息子に会うためにバックステージに行かせてくれとな! 褒めてやろう、東京ドームの警備員はなかなか優秀だ! 全く信じてもらえず、門前払いだったよ!」
「僕のコンサートに・・・来たの? チケットを買って?」
力の声はかすかに震えていた、父がそんな行動に出ていたとは想像もしていなかった
「それ以外にどうやってお前に会う事が出来る?」
健一の声は静かだが鋭い
「お前は正気じゃない! 神様に懺悔したよ! こんな息子を持ってすいませんとな! その後も何度もお前に連絡を取ろうとした、お前には素晴らしい娘がもうすぐ生まれようとしているんだとな! どうすればよかった? どうすればよかったんだ?え?力・・・お前はあの時、もう20歳を超えた立派な成人だった、お前の首根っこを捕まえて私と一緒に家に帰るように強制はできなかった」
力はガクリと膝から力が抜けるのを感じた
「あの時は・・・自分でもおかしかったんだ・・・」
「なるほど・・・」
健一は冷ややかな目線で言った
「息子よ、お前は上手く八年前の事を『おかしかった』と一言でまとめているようだな、お前のした軽率な行動がどれほどの人に迷惑をかけ、沙羅ちゃんをどれほど傷つけたのか・・・今だにわかってないらしい」
その言葉には、皮肉と深い失望が込められていた、健一は立ち上がり窓の外を見つめた、金柑の木が風に揺れている
「私にはわからないよ力、お前は本当に良い子だった、自慢の息子だった、お前が15歳の時、最愛のお母さんを亡くしても、二人で寄り添って生きて来れたと思っていた、お前は友達にも優しく、沙羅ちゃんを心から愛していた、いったい何がお前をそんな風にした?」
力は言葉を見つけられなかった・・・韓国での生活、音楽業界の華やかな世界、スポットライトの眩しさ・・・それらが沙羅や父との繋がりを徐々に遠ざけていった、あの頃の自分は、何かに取り憑かれたようにただ歌い、突き進むしか頭になかった
健一は深く息を吐き、再び椅子に腰を下ろした
「お前の韓国のエージェントの事は何も知らない、ただ今言えるのは、沙羅ちゃんとあの子にはお前は必要ないという事だ、あの二人はお前がいなくても立派にやっている。お前がいない方が良いんだ! 出て行きなさい、力・・・この町から・・・沙羅ちゃんを傷つけるだけだ、これ以上お前を生んだことを後悔させるな」
その言葉は力の心を突き刺した
リビングにはコーヒーの香りと、父の抑えた涙の気配だけが残った
力はただ立ち尽くし、拒絶された父の背中を見つめた・・・
金柑の木が揺れる庭の向こうで、夕陽がゆっくりと沈んでいく
力は八年間の空白が、どれほど深い傷を父と沙羅に残したのかを、ここで初めて理解した