麗は歩いて明彦の家に帰っていた。
明彦を含め、役員は軒並み残業しているが本日社長に就任した麗はなんと、ノー残業である。
何かが間違っている気がする。
(最早これ全部夢じゃない? あーーー夢だ、夢。いや、どこから夢? アキ兄ちゃんとの結婚がそもそも夢じゃない? うん、姉さんの側にいられないのも夢で、社長就任も勿論夢で、台湾にだって行ったことがなくて……)
『逃がさないからそのつもりでいろよ』
九份で明彦に言われた言葉が麗の頭を過った。
それは夢にしては生々しくて。
社長で明彦の妻だと名乗るには地味すぎる女が、駅前にある須藤百貨店の小さなショーウィンドーのガラスに映っている。
就活以降、全くしていなかった自己分析をする必要すらないくらい、これといって優れたところは自分にはない。
(アキ兄ちゃんが、私を好き……。いやいや、あのアキ兄ちゃんやで。アキ兄ちゃんが私を好きになる要素ってある? ないやろ。普通にない。やっぱり夢やわ、これ! あーーー変な夢。はよ目覚めへんかな……)
だがやっぱりショーウィンドウには情けない顔をした自分しか映っていない。
(もし、本当にアキ兄ちゃんが私なんかを好きなんだとしたら……)
ひょっとしたら、明彦はダメな人が好きという、ダメンズウォーカーというやつかもしれない。
(あ、でもアキ兄ちゃんは男だからダレディウォーカー? うーん、語呂が悪い。そもそもアキ兄ちゃんの歴代の恋人って、美人で私にまで優しくしてくれるような性格もいい人が多かったような)
歴代の恋人達と自分を比較しても重なるところは、人類、女、ホモサピエンス、酸素と水と内容は別として食事が必要、後は、日本人は違う。前、フランス人だかイギリス人だかと付き合っていたことがあった。
それに、胸は麗にも一応あるが、彼女達とは存在感が全く違う。
ふと、脳裏に甘え上手という言葉が浮かぶ。
そういえば、巨乳達は皆、甘え上手だった。明彦に上目遣いでお願いと甘えている場面を結構見た。
(そうや、それや! 甘え上手かどうかは知らんけど、私ほどアキ兄ちゃんに甘えてきた奴はいない)
高校の勉強に始まり、教師毎の癖や気に入られる方法、テストのヤマ。
短大の受験時には過去問の解き方を教えてもらい、お手製の練習問題も作ってもらった。しかも、そこと同じ内容が本番でも結構出題された。
それに、初めてのアルバイトの接客の練習、短大に入ってからはサークルの斡旋、就活ではエントリーシートの書き方と面接の練習。
社会人になってからはエクセルや電話の取り方、電卓の使い方も習った。
それに姉にくっついて、ちょこちょことお洒落なパーティーに招待してもらってきた。
なんなら月に二回くらいは二人で出かけていたし、明彦が車を買ったときには真っ先に助手席に乗せてもらってドライブに連れて行ってもらったし、遊園地も映画館も、水族館も、スポーツ観戦も二人きりで行っていた。
(取引先から無料券もらったから使わないと勿体ないから行こうと誘われて、タダ券のご相伴ひゃっほーと、ノリノリで連れて行ってもらっていたけど、本当に全部タダ券だった?)
ひょっとして本当は明彦に奢られていたのではと考えると、一体幾ら使わせていたのだと背筋が冷える。
いや、問題はそこではない。いやいや、そこでもあるのだが。
(本当に、本気で、真実、マジで、事実、アキ兄ちゃんがこんな私なんかを好き……)
自分が今まで享受してきた好意に何故こんなにも気づかないでいられたのか。
一度たりとも、考えもしなかった。妹のように可愛がられているとしか思っていなかった。
だって、釣り合っていないから。
麗は何もかも完璧で賢くて、美しくて、優しい姉ではない。
ただの麗だ。愛人の子。
姉と同じ何もかも完璧な明彦と自分ごときが。だなんて、考えたこともない。
『麗は可愛いよ。特に目が気に入っている』
(私、本当にアキ兄ちゃんの目には可愛く映っているのかな?)
頬に手を添えた。だが、姉には足下も全然及ばない平凡な顔しか映っていない。
「お客様、もし気になる商品がございましたら、お試しになってみられませんか?」
「え、あ! すみません、つい!」
いつまでもショーウィンドウをみていたので不審に思われてしまったのだろう。いかにも高そうな外資系の化粧品ブランドから表れたちょっと化粧が濃い美人販売員の姿に、麗はたちまち現実に返った。
「いえいえ、うちのコスメはケースも可愛いので見惚れちゃいますよね」
「そうなんですよ! 凄く可愛いなって思って!」
麗は全力で嘘をついた。
ショーウィンドウに映る自分を見ていただなんて言ったらどんなナルシストかと誤解されかねない。
「今ちょうどほかのお客様がいらっしゃらないので是非どうぞ」
「えっと、お願いしてみたい気持ちはあるのですが、今日は手持ちがないので……」
遠慮します。と、言って麗は回れ右しようとした。
「勿論、お試しになられるだけでも大丈夫ですよー。それに、カードも使えますし」
「カードも?」
「カードも」
まるで、悪いことを耳打ちするかのようにニヤリと笑って言う販売員の言葉に麗はつい、惹かれてしまった。
結局、新婚旅行代どころか結婚にかかる費用は全て明彦持ちで、麗の貯金は結婚後は全く減っていない。
カードなら麗でも支払える気がした。
(ああ、でも、高くつきそう……。いや、社長になった以上BBクリームと眉毛ペンシルだけでは心許ないのも確かで、これも天啓か……)
「じゃあ、ちょっとだけ……」
そうして麗はこれまで入ったことのなかった須藤百貨店の化粧品売り場に足を踏み入れたのだった。
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