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#王子
#シリアス
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志進様が北の空へと発ってから、地獄のような三週間が過ぎ去った。
帝都に届く戦況の報せはどれも芳しくなく
新聞の活字が躍るたびに私の心は血の気を失い、枯れ果てた花のように萎みかけていた。
食い入るように見つめる手紙の束も、あの日以来、一通も増えることはない。
そんなある夜、静寂に包まれた九条家の屋敷を、切り裂くような軍用車のエンジン音が震わせた。
「桜子! 桜子、起きなさい! 志進様が……志進様が、一時帰還されたわ!」
母の悲鳴にも似た叫びを聞くよりも早く
私は草履を履く間もなく、裸足に近い状態で夜の庭園へと飛び出していた。
冷たい夜露が足裏を濡らす。
けれど、胸の奥で燃え盛る不安と期待の火は、それを感じる余裕さえ奪っていた。
月明かりが青白く、不気味なほど鮮やかに照らし出す枝垂れ桜の下。
そこには、数週間前よりも頬が削げ
軍服に硝煙と砂塵の匂いを深く纏わせた志進様が、幻のように立っていた。
「……志進、様……っ」
震える私の声に、彼は緩慢な動作でゆっくりと振り返った。
かつて絶やさなかった、あの貼り付いたような「完璧な優男」の微笑みは、もうどこにもない。
そこにあるのは、死地を潜り抜け
ただ一人の女性を狂おしいほどに渇望する、剥き出しの「男」の貌だった。
「…あんな卑怯な手紙を遺して、すまなかった。……どうしても、死ぬ前にもう一目だけ、君の体温を感じたくて……無理を言って戻ってきたんだ」
彼の声は砂を噛んだように掠れ、隠しようもなく震えていた。
私はたまらず駆け寄り、彼の逞しい胸に全力で飛び込んだ。
頬に当たる軍服のボタンの凍るような冷たさと
その奥から伝わってくる、激しく、命の火を燃やすように刻まれる鼓動の熱。
「……バカな人! 本当に、大バカな人です……! どうして、あんな酷い嘘をついたのですか!義務だなんて、正しい選択だなんて……そんな冷たい言葉の刃で、私を置いていくなんて…っ!」
私は彼の胸を、拳で何度も叩いた。
涙が止めどなく溢れ出し、温かい雫が彼の白い軍服を汚していく。
志進様は、私の両手を優しく
けれど骨がきしむほどの逃がさない強さで包み込むと、そのまま私を壊さんばかりに抱き寄せた。
「……ごめん、本当にごめんね…桜子…。それでも、怖かったんだ。君を愛していると、この命よりも大切だと認めてしまったら……戦地で死ぬのが、君を一人この世に残していくのが、恐ろしくてたまらなくなるから。……心が、折れてしまいそうだったんだ」
彼は私の顔を両手で挟むように覗き込んだ。
散り急ぐ桜の花弁が、まるで雪のように私たちの間に舞い落ちる。
志進様の大きな掌が、私の火照った頬を包み込む。
その指先は、今度こそ迷うことも
役割を演じることもなく、狂おしいほどの熱を持って私に触れていた。
「桜子……僕は、君を『義務』で愛したことなんて、一度も、一瞬たりともなかった。……幼い頃から、僕の瞳には君という光しか映っていなかったんだ」
月光を反射した彼の瞳が、脆く、潤んで光る。
これまで「完璧な幼馴染」を演じ
鉄の意志で感情を押し殺してきた彼の、初めての完全な陥落。
私は彼を見上げ、震える唇で、ありったけの愛を込めて応えた。
「私も…私もです、志進様。……貴方のいない世界なんて、自由でも、正しくもありません。……どうか、生きて戻ってきてください。そして、親が決めた形式ではない、私という女を、貴方の本当の妻にしてください」
志進様は、苦しげに、そしてこの世の何よりも愛おしげに目を細めた。
彼は私の額に、魂を刻みつけるような、深い誓いの口づけを落とす。
「ああ。約束する。……この桜が次に咲く頃には、家同士が決めた婚約者としてではなく、僕が、僕自身の意志で選んだ最愛の女性として、君を迎えに来る。必ずだ」
夜の静寂の中、私たちはただ、重なり合う互いの体温を確かめ合った。
それは、長い間すれ違い続けてきた二人の「両片思い」が、終わりを告げる戦地を前にして
初めて「ひとつの不滅の愛」へと昇華した瞬間だった。