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#王子
#シリアス
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夜桜の下での、あの熱に浮かされたような再会から、わずか数時間。
無慈悲にも東の空が白み始め、薄紅色の空が帝都を染めていく。
それは、抗いようのない出撃の刻限が近づいている報せだった。
屋敷の門前に停車した軍用車のエンジン音が、凍てつく朝の空気を震わせる。
その規則的な振動は、まるでお互いの心臓を切り離すカウントダウンのようでもあった。
「……行かなければ。桜子、顔を上げておくれ」
志進様は、夜の間に乱れた軍服の襟を厳かに正し、私を真っ直ぐに見つめた。
昨夜、激情に身を任せて私を抱き締めたあの姿が嘘のように
彼はまた「帝国海軍の凛々しい将校」という峻厳な顔を取り戻そうとしている。
けれど、その瞳の奥底だけは、隠しきれない独占欲と熱を帯びたまま
逃がさないと言わんばかりに私を射抜いていた。
「志進様……本当に行ってしまわれるのですね」
「ああ。でも、以前の僕とは違う。……今の僕には、死んでも守り抜き、何が何でも這って帰るべき『唯一の場所』があるから…もう少しだけ、待っていてくれ」
彼はふっと、いつものように穏やかに微笑んだ。
けれど、その微笑みはもう、家柄や義務を演じるための仮面などではない。
愛おしさに胸を締め付けられ、私を安心させるためだけに紡がれた、心からの慈しみだった。
「桜子。……最後にもう一度だけ、形ではなく、僕の魂の声を言わせてほしい」
志進様は一歩踏み出し、私の震える両手を、その大きな掌で包み込んだ。
手袋越しではない、直接伝わってくる彼の素肌の熱。
それは、彼が今ここに生き、私を求めている何よりの証左だった。
彼は周囲の兵士たちの視線も、厳格な軍規も
もはや一切を憚ることなく、私の耳元に顔を寄せた。
そして、心臓を直接揺さぶるような、低く熱い声で囁いた。
「僕は、君を愛している。……親が決めたからじゃない。家系図が繋がっているからでもない」
「世界中の誰が反対し、たとえ天が我々を裂こうとしても、僕が、僕という個としての男が君を選んだんだ」
「君がもし僕を単なる幼馴染としてしか見ていなくても……仮初めの婚約者という義務感だけで側にいてくれたとしても…僕は一生、君を誰にも渡さないつもりだった」
その言葉は、もはや「優男」のそれではない。
剥き出しの執着、逃れられないほどの情愛に満ちた、一人の男としての戦慄するような告白だった。
「志進様……私も、私も同じですから!」
私は彼の胸に顔を埋め、喉が裂けるほど叫ぶように応えた。
志進様は、私の背中に回した腕にギリリと力を込め、一瞬だけ、私の骨が折れてしまうのではないかと思うほど強く抱きしめた。
「……ああ。その言葉だけで、僕は地獄の底からでも、何度だって這い上がってこれる。君の元へ、必ず」
彼は断腸の思いで私を離すと、一度もよろめくことなく、迷いのない足取りで車へと向かった。
車に乗り込み、扉が閉まる直前。
彼は一度だけ振り返り、軍帽の庇に指をかけて
かつていたずらっ子だった少年時代のように、不敵に笑ってみせた。
「桜子! 次に会う時は、僕を『志進様』などという遠い呼び方ではなく、名前だけで呼んでおくれ。……義務ではない、君のたった一人の夫としてね」
走り出した車。巻き上がる白茶けた砂埃。
私は、遠ざかる彼の背中
そして彼が背負う過酷な運命に向かって、何度も何度も、腕がちぎれんばかりに手を振った。
頬を伝う涙は、もうかつてのような悲嘆の色ではなかった。
それは、死地から必ず戻ってくる彼と
そこから新しく始まる、本当の意味での二人の未来を照らす、希望の滴だった。