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シグニカの大地は東西と南北に伸びる山脈によって、低地にして平地である四つの土地に分断されている。かつて四つの土地を治めたそれぞれの王家は、恐ろしい魔法と異なる信仰を有していたが故に安寧に乏しい長く険しい歴史の末、巫女でもあった四人の貴い王女を最後に血脈を絶やして久しい。今やシグニカ全土をその手中に収めるのは古き信仰を見限った民草に支持される救済機構である。その中心地は、黄昏とともに眠る低地でも、古き信仰の香る平地でもなく、東西と南北に横たわる高地と、その交わる所にあった。
そしてここはシグニカの高地に築かれたいくつかの町々の中でも西高地最大の都市、寝床。わざわざ山の斜面に沿って六層の人工の大地を施し、その上に造られた街だ。古くからその土地に彷徨う地の精霊は空を覆う石の大地を呪い、地下に潜む山の小人は王国を刺し貫く岩の柱に呪わしい鶴嘴を振るったが、どちらも功を奏することはなく、傲り高ぶるゴルトローの降り注ぐ嘲笑に耳を塞ぐことしかできなかった。
ゴルトローにおいて最下層の人工大地『ターティア』の縁にある宿屋『森のみみずく亭』の安部屋の開かれた窓から外を覗いている女がいた。
星に染めたような銀の髪はきつくまとめられ、血色の良い皮膚は、鍛え上げられ磨き上げられた肉体を繊細に覆っている。戦い抜いてきた者の精悍な眼差しを彩る瞳は日の出前の青の時間の空の如く深く濃い。いかにも町人の身にまとうような何の変哲もない腰丈の鹿の重ね毛皮の羽織だが、その風貌も振る舞いも、腰に添えられた細身の剣も、平穏や安寧とはほど遠い生活に身を置いていることを隠し切れずに示している。氷の如き刃の如き危うい美しさと野花の如き弓弦の如き儚い強かさを兼ね備えた女だ。
澄まして佇む月も清らかに瞬く星も物語られる古い伝説も、厚い雲に覆われて消えた暗い夜だった。しかしその北向きの窓から見渡せるガミルトン行政区の、低地に生きる人々の営みの緑っぽい仄かな灯りは僅かながら高地まで届いている。とはいえ安宿の窓辺の女ははるか眼下の炉辺の明かりなど気にも留めず、一心不乱に真っ暗な天を仰いで祈っている。まるで最後の城壁を任せられた将校が恐れおののく兵士たちに突撃を命じる鬨の声のようであり、幼子というには凛とした少女が二人きりの時だけ母に甘える声のようでもある不思議な声色で祈りの言葉を唱えている。
「私をお守りください。私をお支えください。私をお導きください。ヴェガネラ様」
するとその祈りに応じたかのように星明りなき窓辺に不思議な風が吹き込んだ。温もりも冷ややかさもない、背中を後押しするような柔らかくも力強い風だ。
女は確信に満ちた笑みを浮かべると、祝福に満たされた窓辺から離れ、明かり一つない部屋をふらりと出て行く。宿の薄暗い廊下と埃っぽい階段を足早に通り抜ける。玄関で鉢合わせた宿の主人が心配するように声をかけるが、女は先程まで微笑みが湛えられていたとは思えない、凍てついた表情で会釈をして外へ出る。その足で、未だ来たらぬ救いの乙女に捧げられたゴルトローの街の通りを東へ向かって歩いて行く。
大きな街だが最下層の辺縁近くの裏通りは夜も更けると明かりに乏しい。しかし女は恐れなく、淀みなく歩を進める。
風はまだ吹いている、女の背中を押すように、一定の力で導くように。
「ちょっと、ちょっと、渇望に潜む豊饒さん。こんな夜遅くにご婦人がお一人でどこに行くおつもりですか。付き添わせてくださいよ」
息を切らして女を追って来た男もまたこの街に溶け込む平凡な身なりだ。方々に跳ねた銅色の髪に榛色の瞳。鹿革の上下に麻布の腰帯。帯に佩いた剣は見る者が見ればその男の確かな実力を示していることに気づく。
シャリューレと呼ばれた女は不思議そうに、疑念を込めた青の瞳を男に向ける。「展望。貴公こそ、このような時間になぜ起きていたんだ? どうやらその髪を見るに……」
シャリューレはヘルヌスの頭、鳥の巣のようになった髪に目を向ける。
「もちろん!」と言ってヘルヌスは力瘤を作って鼻につく笑みを見せる。「鍛えていたんですよ。不滅公の騎士として相応しい武人であり続けるために! もちろん肉体だけじゃありませんよ。剣の鋭さ、いや増して、返す刃は脱兎の如く。力も技も日々磨き上げているのです。髪は、仕方がないんです。こういうものなんです」
そう言ってヘルヌスは髪をなでつけるが無駄だった。
「あの狭い部屋でか。殊勝な心がけだが、よくもばれずに済んだものだ」と言ってシャリューレは歩を進める。
「でしょう? ……いや、ちょっと待ってください」ヘルヌスはシャリューレの背中を追う。「俺のことは良いんですよ、シャリューレさん。どこ行くんですか?」
「私がシグニカまで何をしに来たのか知らないのか?」
「知ってますよ!」ヘルヌスは澄んだ夜の静かに気づいて声を落とす。「というか目的を一にする仲間でしょうが。でも魔導書があるのは総本山でしょう? まだまだ先ですよ。え? まさか今から発つわけじゃないですよね?」
シャリューレは耳元で喋るヘルヌスから離れて立ち止まり、腕を組んで言う。「何かまずいのか? 早いに越したことはない」
「整備されているとはいえ夜の山道なんて危険ですよ。いくら貴女の剣の腕が……」
ヘルヌスが黙るより少し前に風が止み、シャリューレは魔の気配を見出したかのように周囲の薄暗闇に目を向けていた。信仰の街に相応しくないごろつきが十数人、建物の陰から現れて二人を囲む。
ヘルヌスはシャリューレを庇うように前に立つ。「何だ? 強盗か何かか? にしてはやけに数が多いな。こっちは二人だぞ」
「強盗の手勢など多いに越した事はないのではないか?」とシャリューレは言う。
「まあ、そうなんですけど。一人当たりの取り分とか……。ああ、俺がやります」シャリューレが腕を組んだままで何もしない内からヘルヌスは言った。「シャリューレさんの刃傷沙汰は刃傷沙汰で済まないですからね。とはいえ俺の剣の腕も悪くはないんです。しかと目に焼き付けてください。そして殿下に報告してください。あいつ中々やるよってね」
ヘルヌスが鞘に納めたままの剣が抜けないように革紐で縛って構えると、初めにシャリューレの背中に飛び掛かってきたごろつきの頬っ面をすかさず叩きのめす。
ごろつき共はそれだけで臆してしまい、足がすくんでいた。
「聞いてねえよ、くそが」「とんでもなく強いってのは女の方じゃなかったのか?」「良いからやるぞ。どのみち逃げても殺されるんだ」
ごろつきたちは手に手に得物を持ってヘルヌスに躍りかかるが、鞘から抜かれない剣とて、その太刀筋は鋭い。ごろつき共の拳も短剣も棍棒もヘルヌスの衣にすら触れることなく、使い込まれた剣の鞘の一撃に沈んでいく。ごろつきの人数分だけヘルヌスが剣を振るった時、その場に立っていたのはヘルヌスとシャリューレともう一人だけだった。
シャリューレとヘルヌスの視線の先、明かりのない建物の石壁に寄りかかっている者がいる。ヘルヌスが鞘に収まったままの剣先を向けると、その影の中の人物は長い舞台劇の終演を讃えるように大仰に拍手を響かせてみせた。そうして壁から離れ、影から出てくる。
ヘルヌスが勇ましく言う。「お前が頭か? 見物とは良い身分じゃないか」
それは深い森の最も古い大木のように落ち着いた佇まいの、しかし退屈以外の何をも恐れぬ若者のような情熱に満ちた顔つきの初老の男だ。灰の混じった黒い髪。年季の浅い目尻の皴。余裕のある笑みを浮かべ、まるで円形舞台の中央で体裁よく見せる俳優のように視線を意識した立ち姿だ。身につけた羊毛の上衣はゆったりとして柔らかでありながら、下穿きは折り目正しく誠実さと几帳面を表している。そしてこの男もまた剣を佩いている。が、段平を納める鞘はなく、幅広の刃が抜き身でぎらりと光る。まるで牙を剥く獣の眼のような、獲物が目をそらせなくなる妖しい閃きを秘めている。
「その若さで見事な業だね。髪はぼさぼさなのに。おじさん感動しちゃったよ」その声も長い年季を響かせているが衰えのない張りと艶があった。
「いつもぼさぼさなわけじゃない」と言い終えるや否やヘルヌスは男へと飛び掛かり、鞘に納めたままの剣を一直線に突き出す。
風を切る音と共に初老の男の喉笛に鋭く目掛けた剣は、しかし男の皴が走りつつある片手によって難なく止められてしまった。さらにはヘルヌスの剣は岩盤にでも突き刺さったかのように身動きが取れなくなる。
「でも、殺す気がないなら剣なんて持たない方が良いよ」男がそう言うと自らの剣を抜きざま、横薙ぎに振る。
力比べに観念してヘルヌスは自らの剣を手放して、男の剣から逃れ退いた。
「そしてシャリュちゃん。久しぶり」男は余裕たっぷりにヘルヌスの剣を投げ返して言う。「ずいぶん見違えたね。大きくなったし、ずっと強くなった。それに何より美しくなった」
屈辱にも敵に返された剣を強く握りしめ、ヘルヌスはちらとシャリューレの方を見る。「お知り合いですか? この軽薄そうな男」
「君も大概だろ」と軽薄そうな男は言う。
「ああ。奴はしたたか」シャリューレはジェスランから目を離さずに頷き、語る。「かつて救童軍の総長を務めていた男であり、私の剣の師匠だ。奴から剣術の全てを教わった」
「は? 救童軍ってあの? 大陸中を暗躍した人攫いの組織を壊滅させたとかいう」ヘルヌスは一息に言って息を継ぐ。「それが、貴女に、剣を教えた男ですって? どうりで。それで、どうするんですか? 逃げますか?」
「ヘルヌスは逃げた、と報告していいのか?」とシャリューレは言う。
「そりゃ別に構いませんよ」ヘルヌスは真顔で言う。「別にあいつと戦えなんて命令されてませんからね。あいつが、目的のものを持ってるなら別ですけど。そうでないなら逃げるが勝ちってもんです」
「それは困るなあ」とジェスランは余裕をもってぼやく。「君はともかく、シャリュちゃんに逃げられては困る。おじさん、とてもがっかりするよ」
「どちらにしてもヘルヌス、貴公に勝ち目はないから下がっていろ。二人がかりでも大して変わりはしない」
シャリューレの言葉にヘルヌスは黙って頷く。返された剣を腰に納めて、数歩退き、シャリューレの後ろに引き下がる。
「そうだ、シャリュちゃん。これを覚えているかな?」
ジェスランは懐を探ってくすんだ群青色の石飾りを取り出して見せる。今にも千切れそうな古びた紐に吊るされた群青色の石は夜風に揺れていた。
シャリューレは首を傾げるでもなく、振るでもなく、素朴な石を品定めするように見つめて言う。「いや、覚えていないな。何だ? それは」
ジェスランは石飾りを懐に仕舞って言う。「おじさんに勝てたら教えてあげるよ」
そう言うとジェスランはシャリューレの元へ詰め寄るように進む。一方シャリューレはじっと立って待ち構えていた。
「どうしたシャリュちゃん、余裕だね。剣を抜かないの?」
ジェスランは怪訝な表情を浮かべつつも剣の柄に手をかける。
シャリューレは腕組みを解くが、剣に指を伸ばしはしない。
「殺す気がないように見えるか? 貴様こそ早く抜いてはどうだ?」
ジェスランは無言で、剣を引き抜きざまに踏み込み、その鋭く血に飢えた刃をシャリューレの喉元に振り抜く、つもりだった。実際にはそうならず、剣は引き抜かれず、ジェスランはただ前に踏み込んだだけだった。
シャリューレは今なお微動だにしていないかのようで、しかしジェスランの額には脂汗が流れる。
「どこまで、上り詰めたんだよ、君は。まるで見えなかった」
ジェスランは震える声でそう言うと、敵を目の前にして、まだ腰に収まったままの己の剣に目を向ける。その柄を固く握ったままのジェスランの右腕は夜風に吹かれて振り子のように揺れ、とうとう指先から力が失われると石畳の上にぼとりと落ちた。
右肩から先を失って膝から崩れ落ちるジェスランの前でシャリューレはようやく手を伸ばすが、伸ばした右手は剣の柄ではなく空中をつかむ。すると握られた手の中から清らかな水が溢れ、同時に凍り付く。その手に握られたのは氷でできた剣だ。白い冷気を放ち、不純物一つない透き通った剣がジェスランの首に添えられる。
「へえ、そういうこと出来るようになったんだ。良い師を持ったんだね。おじさん妬けちゃうなあ。冷たいけど」
ジェスランの右の肩から溢れ出るべき血は凍り付いている。
「本当にその男は師匠だったんですか? 余裕で勝っちゃってるじゃないですか。というか紛らわしい言い方しないでくださいよ」とヘルヌスはシャリューレの後ろから声をかける。
「そもそも私はこの男に負けたことなど一度もない」とシャリューレは言い切った。
「いや、あるって。一度だけ」とジェスランが鋭く否定する。
「一度だけかよ」とヘルヌス。「よくも挑んでこれたな」
「ほら、さっきの石。あれはおじさんが君に勝った時に奪ったんだ。おじさんに勝ったら返してやるってね」
「じゃあずっと前に返しておけよ」とヘルヌス。
「さらばだ。ジェスラン」とシャリューレは鋭く冷たく言い放つ。
「ちょっと待って!」ジェスランも必死だ。「待ってよシャリュちゃん! 石飾り! いらないの!?」
「いらん」
「分かった。降参! 降参でえす!」ジェスランは左手と腕の失われた右肩を上げる。「何でもする! 何をしようとしてるのか知らないけど何でも手伝う! たぶん魔導書なんだろうけどね。さっき聞こえたからさ。だからもう少し生きさせて!? お願い!」
シャリューレは氷の剣を振り上げる。
「いや本当だって! これでも育てた弟子に対する愛くらいあるんだよ!? たしかに君が離反した時、少し、いや、かなり憎しみも感じてはいたけど。愛と憎しみってあれだね。意外と同居できるっていうか。分からないもんだね。今は本当に敬意しかないよ。立派になったもんだ、本当に」
シャリューレは慈悲の欠片もない青く冷たい瞳でジェスランを見下ろす。「私には愛も憎しみもないな。ただ私たちを殺そうと企んでやってきた者に対する不信だけだ」
「そりゃそうだ。そうかもしれないけどお」
「待ってください、シャリューレさん」とヘルヌスが口を挟む。「情報を聞き出してからでも遅くないのでは? 俺たちを殺そうとしたこと以上に俺たちのことを把握している点については見過ごせない。救童軍が解散した後、今もこいつは救済機構の坊主なんですか? それ次第ではここでの活動に支障を来しかねませんよ。それに間諜として使えるならずっとやりやすくなります」
「いいね。そうこなくっちゃ。その髪型も悪くない」ジェスランはあまり身振りしない代わりに大袈裟にお道化た表情で言う。
「まあ、でもシャリューレさんがどうしてもって言うなら別にいいですど」とヘルヌスは唐突に飽きたかのように冷たく言った。
途端にシャリューレの氷の剣が蒸発して夜に溶けて消える。
「治療してやれ」シャリューレは感情を込めずに言う。「まだ元に戻せるはずだ」
そう言ってシャリューレは再び宿屋の方へと歩き去って行った。
「やっぱり君は変わらないよ」シャリューレには聞こえないようにジェスランは呟く。「強さも美しさも、その性格も」
そしてヘルヌスもまた小さくぼやく。「結局何しに出て来たんだよ、あの人」