初春のフォーリオンの外洋にしては珍しく、空は雲一つなく澄み渡り、風も波も穏やかで年老いた犬のように大人しい。貨客船『北の歌』号は真夏の入道雲の如く白い帆を大きく膨らませて、黄色く照り映える太陽を追うように青波を掻き分け、西へと前進している。
ユカリは前のめりになる好奇心と足を竦ませる恐怖心を半々にして輝く海を甲板から覗き込み、四方を水平線に囲まれていることを何度も確認する。遠洋に出るのは生まれて初めてのことだ。これほど巨大な船の上にいながら、風に揺れる古いつり橋の上にいるようなとても心許ない気持ちになった。
海の冒険もまた物語として多く伝えられていて、ユカリはどれもとても大好きだ。コルドールの化け蟹退治。涯に至る者の塔船脱出。海神水底郷の番人の七つの試練。
そこまで考えてユカリははたと気づく、古今東西の物語において多くの勇敢な英雄たちが海で命を散らしていることに。ある者は誉れに疎い海の怪物に喰われ、ある者は最期の言葉と共に嵐の海に呑み込まれ、ある者は海霧の向こうの確かではない海域に自ら消えた。
途端に海そのものが大口を開いて獲物を待ち受ける巨大な怪物のように思えてきて、ユカリは逃げ出すような気持になって、隣で水平線を見つめる焚書官の横顔に目を向けた。
結局のところユカリたちはユビスを発見することができなかった。方々尋ねまわって情報を集めるも、毛むくじゃらの巨大な馬はショーデンの港町を南に走り去った後だった。そして、ユビスに跨っていた盗人は二人、一人は青銅の鎧に円套を着込んだ武人らしき男、そしてもう一人は喪服の女だそうだ。
あの時あの町に喪服を着た女がどれくらい居たかなど定かではないが、三人はアギノアを連想せずにいられなかった。
宿が用意できる賠償金は僅かばかりだったが、ユカリたちは真珠を売ってまだ足りない船賃分だけを受け取ることにした。
初めはユビスを追いかけるべきだと主張したレモニカだが、ユビスに追いつく方法があるならユビスは必要ないと言い放ったベルニージュの言葉に絶句して、その後二人は口を利かなくなった。
ユビスに追いつけるわけがない、というだけのことを伝えるために言葉を選び間違えたらしいことはユカリにも分かった。後でベルニージュ自身がそのことをユカリに伝えに来たが、レモニカに意図を説くつもりはないらしい。
「ベルニージュさまの言いたいことは分かっているつもりです」眼下で母を探す仔犬のように飛び跳ねる白波を見下ろしながらレモニカは呟いた。「ユビスの足の速さなど関係ない、と言えば嘘になりますもの。そもそも足が必要で彼を求めたのが最初の出会いでしたわね。でも他に足があるならユビスは必要ない、などとも思えません。わたくしもまた多くの偽善者の内の一人ですわ」
二人のどちらかが間違っているわけではないだろう、とユカリは思う。結局のところ最も大事なものや一番の目的はみんな違うのだから選択肢だって異なってしまう。
自分にとってはどうだろう、とユカリは考える。ユカリも最初はユビスを追いかけようと考えたが、グリュエーが全力を出しても追いつけない事実を思い出すとすぐさま次善策について考えていた。
ユカリは自分の良心に言い聞かせるように話す。「ともかく今はシグニカで再会できることを祈るしかないよ。アギノアの目的地もシグニカのどこだかって言ってたし」
レモニカは神妙に頷く。「ガミルトン領――いまはガミルトン行政区ですね――にある浄火の礼拝堂という遺跡だそうですわね。結局シグニカに行くべき理由が増えてしまいましたわ」
そう言われて、レモニカはシグニカ行きに及び腰だったことをユカリは思い出す。
「そういえば前に私、救済機構の魔導書を後回しにする理由はないって言ったけど、優先すべき理由は思いついたよ」
「お聞かせくださいませ」
ユカリは頷き、一息に考えを述べる。「私が、ユカリとラミスカが同一人物だってこと、サイスに、つまり焚書官たちに、つまり救済機構に、知られちゃったわけだけど。あの時、クオル退治の功績を全部サイスに譲ったでしょ? その代わり私たちをあの場では追わないことを約束してくれた。だから、そうなると私たちのことを救済機構の偉い人に報告するのも難しくなるんじゃない? 別に報告しないことについては約束させたわけじゃないけど」
「なるほど。つまりユカリさまの二つの姿が同一人物であることを救済機構全体にまだ広まっていない可能性がある。広まる前に侵入しようということですわね。確かに他で魔導書収集を繰り返せば、遅かれ早かれユカリさまのことを広く知られてしまうことでしょうし、その考えは正しいかもしれませんわ」
「うん。サイスには悪いけど」
ふと舳先のほうでベルニージュが何やら水夫と話していることにユカリは気づく。いつも通り新しく訪れた地域の魔法文化を教わっているのか、あるいは教えているのか。屈強な男たちに近づきすぎず遠ざかりすぎず、微妙な距離感を保って話をしている。そして何かを食べている。魚っぽい何か。ずるい。
働いている船乗りたちを見て、グリュエーに手伝わせた方が良いか尋ねるつもりだったことをユカリは思い出す。今のところ順風満帆だが、グリュエーならば尋常以上に船の力を引き出せる。
ユカリは海面が不自然に凹んだり盛り上がったりしているところに目を向ける。グリュエーは潮流をからかうことに夢中らしいので後にすることにした。
「そういえば」とレモニカは鉄仮面の奥の好奇心に満ちた実母の瞳をユカリに向ける。「魔法少女の五番目の魔法の使い方はお分かりになりました?」
「ああ、うん」ユカリは合切袋から魔法少女の魔導書『我が奥義書』を取り出す。「書いてることに関してはまだ分からないことも多いけど使い方はよく分かった。今回の魔法は結構便利に使えそうなんだよね。意識を失う、みたいな危険性もないし」そして好奇心に満ちた双眸を真正面から受け止めてにやりと笑う。「でもまだ教えない。ベルと仲直りしたらだね」
レモニカは笑みを浮かべながらも抗議する。「ユカリさまの意地悪!」
「おい! お前たち!」と怒鳴られる。ユカリたちが振り返ると大柄な水夫が二人を指さして近づいてきた。「今、ユカリっつったか?」
ユカリは魔導書を片づけてレモニカの前に立って言う。「ユカリ文字について話してたんですよ。私たち魔法使いなので」
「ユカリ文字だと?」
ユカリは失礼にならない程度に首を傾げる。「ご存じありませんか? 魔法少女ユカリ自身、そこから名を取って名乗ってるそうですよ」
「だとしても魔導書を集めてるっていう不吉な女の名前なんて口にするんじゃねえ! 海神様を怒らせるつもりか!?」
「そんなつもりはないですけど。気をつけます」ユカリは努めて反省している風に見せる。
その時、強烈な横風が『北の歌』号に吹きつけ、大きな船が大きく揺れる。
それ見たことかという表情で水夫はユカリを睨みつけ、ぶつくさと言葉を吐き捨てながら持ち場へと走って行った。
気が付けば白雲一つなかったはずの海に不躾な強風と不遜な大雨を伴う黒雲が、先陣を切ろうと競い合う騎兵の群れのようにこちらへ急速に迫っている。雷をもその身の内に孕んでいるらしく、時折眩い稲光を放っていた。次の瞬間には耳を塞がれるほど強烈な雨が甲板を叩き始める。
ベルニージュは歌うたう女神の船首像と共に天を仰いで叫んでいる。その魔法使いの友人が既に嵐に対応するための魔術を行使し始めているらしいことにユカリは気づく。
「レモニカは中に戻ってて!」と風に負けない声でユカリは叫ぶ。
波をかぶりつつレモニカも声を張る。「ユカリさまはどうなさるのですか!?」
「ちょっとだけ話を聞いてみる!」
「どなたに!?」
「嵐に!」
レモニカを見届けると、ユカリは手すりにしがみついて嵐に【話しかける】。
「嵐よ! その名を呼ぶも恐れ多き天に君臨する覇者よ! 何処から何処へお出でになるのか! その身においては何心ない徒であれども、人の身には大いなる災いなり! 何卒広い御心をもって哀れな人の子を慈しみ給え!」
「吾輩は海ぞ。嵐は我が眷属に過ぎぬ」と船の下から大海原が語り掛けて来る。
ユカリは天を仰ぐのをやめて海を見下ろす。見下ろしてしまう。
「これは失礼いたしました。えーっと、海よ。その名を呼ぶも――」
「もう良いわ。吾輩の名はフォーリオン。最も古き大海の一つにして、忌まわしき大陸に痛烈なる打撃を与えた千軍の長、天地が隔たれる前よりの冥府の君の片腕である。愚かにして姑息なる人の子よ。なぜ吾輩が貴様に怒りを示しているのか分からぬか」
ユカリは荒れ狂う海に翻弄される船のびしょ濡れになった甲板で手すりにすがりつきながら海の言ったことを考える。
「なぜ私に怒りを示しているか、ですか? なぜ私に怒りを……。私に!? 私個人に怒ってるんですか!?」
「愚か。あまりにも愚かなり、人の子よ」更に海は荒れ狂い、手下の嵐は暴れ狂う。
船は風に舞う木の葉のように易々と軽々と揺るがされ、ユカリは必死の思いで船縁にすがりつく。
「分かりました! 分かりましたから理由を仰ってください!」ユカリは泣きそうになりながら訴える。流した涙もたちどころに大雨に流される。「何を怒っているんですか!? 私に何を求めているんですか!?」
「我が可愛い姪御、トイナムの入り江に金を借りたこと! 忘れたとは言わせんぞ!」
途端にユカリは思い出す。ミーチオン地方は港町トイナムにて首席焚書官チェスタに焼き殺されそうになっていた海賊を助けるため、トイナムの入り江そのものに話しかけ、助けを求めたのだ。結局間に合わなかったが、代価は銀貨十枚。そして少しだけ間が悪くて、もちろん悪気などなかったものの、その内の九枚しか支払えなかったのだった。
「思い出しました! すみません! 後で払おうと思ってたんです! 借りたんじゃなくて代金ですけどね。今出します! すぐ出します!」
ユカリは濡れた合切袋を漁り、船賃の残りの銀貨を一枚握りしめると海に投げつけて支払った。
波は強く打ち寄せ、風は船をひっくり返そうとする。
「フォーリオンさん! フォーリオンさま!?」ユカリは声の限りに叫ぶ。
「足りぬ」
「は? 銀貨十枚の内、確かに九枚は以前に払ってますよ」とユカリは己の耳を信じて海に聞き返す。
「利子が足りぬ。金貨を百枚、いや、千枚寄越せ!」と海はとんでもなく開きのあるとんでもない金額をふっかけてきた。
庶民には一生かけても稼げない額だ。本当に地上の金貨の価値を知ったうえで請求しているのか甚だ疑わしい。
「そもそも利子って何ですか! さっきも言いましたけど、あれは借金じゃなくて代金です! 多少の延滞金ならともかく利子を払う道理なんてありません!」
古海はユカリの耳にも誰の耳にも無言で、ただただ船を揺らす。今もしも船の声を聞いたならば心が張り裂けるような叫び声をあげていることだろう。
ようやく海が口を開く。「よかろう。ならば、命を以て償うがいい」
すると大波が甲板を越えて、しかし局地的にユカリだけをさらっていき、海に比べれば体の小さいユカリは抵抗空しく暗い海へと落ちた。
闇に濡れ、白帆を膨らませた船の姿は消え失せる。どこかへ手を伸ばすが何もつかむことができない。雷の閃きが見えるが、息ができない。海上に顔を出しているはずだが、豪雨と黒波が顔を覆うように何度も叩きつける。海の様相が露わになった。ユカリは大渦潮の只中にいる。外から内へ、上から下へ、ユカリを引きずり回す。渦巻の中心では光をも吸い込んでいるかの如き真の闇が口を開けている。生を求めてもがくが、大渦潮の中心との距離は着実に確実に縮んでいく。捕まえた獲物を離さず食わず、焦らすようにゆっくりとゆっくりと誘うようにユカリの体を闇の中枢に引き寄せる。渦の芯が徐々に下方へ抉れていることに気づく。ユカリは無限に回転し、渦巻は螺旋へと変じる。頭の中を掻き混ぜられたようになって何もかも考えられなくなって魂まで引き剥がされそうでベルニージュとレモニカと共に乗っているべき『北の歌』号から遠く離れて螺旋潮流の底へ落ちて落ちて落ちて……。
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