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「独占の庭」
桜が散り始めた春の終わり、私は七瀬(ななせ)と出会った。彼女は、校庭の隅にある、誰も手入れしない小さな花壇で、たった一人、忘れられたパンジーに水をやっていた。差し込む夕陽に透ける銀色の髪と、伏せられた長い睫毛。まるでガラス細工のような儚さに、私は一瞬で心を奪われた。
「あの、よかったら、手伝いましょうか?」
それが、私たちの最初の言葉だった。それから、放課後はいつも花壇。荒れた土を耕し、新しい花を植え、小さな命が芽吹くのを二人で見守った。七瀬はいつも静かで、感情をあまり表に出さない。でも、花を見つめるその瞳は、宇宙の星々のように深く、私にはそれがたまらなく美しかった。
私は、七瀬の隣にいる時間が何よりも大切になった。彼女の好きなものは何だろう?嫌いなものは?どんな時に笑ってくれるんだろう?七瀬が私以外の誰かと話しているのを見るだけで、胸の奥がチクチク痛んだ。まるで、私が大切に育てている花に、他の誰かが勝手に水をやっているような、そんな感覚。
ある日、美術部の子が、七瀬に絵のモデルを頼んでいた。七瀬は少し困ったように「ええと…」と答えていたけれど、私はその会話に飛び込んだ。
「七瀬は、放課後、いつも私と花壇の手入れをしてるんです。ごめんなさい、他の用事は引き受けられないと思います」
美術部の子は気まずそうに去っていった。七瀬は、何も言わずに私を見ていた。その瞳に、一瞬、戸惑いのようなものが宿ったのを、私は見逃さなかった。
「だって、七瀬は私の花だから。私が一番、近くで見ていたい」
私はそう言って、七瀬の細い指にそっと触れた。彼女の指先は、ひどく冷たかった。
それから、私はより一層、七瀬の隣を独占するようになった。休み時間はもちろん、放課後も、花壇の作業が終われば、一緒に図書館に行き、一緒に帰った。他の誰かが七瀬に話しかけようとすれば、まるで無言の壁のように、私が間に割って入った。七瀬は相変わらず何も言わない。ただ、少しずつ、その表情から感情が消えていくように見えた。
ある雨の日、私は七瀬を美術室に誘った。誰もいない薄暗い部屋で、七瀬は静かにイーゼルに向かっていた。
「七瀬、何を書いてるの?」
問いかける私に、七瀬は振り返らず、ただ白いキャンバスを見つめている。私は、彼女の背中にそっと腕を回し、耳元で囁いた。
「七瀬は、私のものだよね?」
七瀬の体が、微かに震えた。彼女の描いていたキャンバスには、一面に咲き誇る、真っ赤な椿の花が描かれていた。まるで、血のように鮮やかな、独り咲きの椿。
「私が、七瀬の全部を守ってあげる。だから、どこにも行かないでね」
私は七瀬の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。彼女の香りは、土と花の匂い。それは、私だけが知る、私だけの七瀬の匂いだった。
七瀬は、ゆっくりと筆を置いた。そして、震える声で、ただ一言、呟いた。
「…うん」
その声は、雨音にかき消されそうなほど小さかったけれど、私には確かに聞こえた。
その日、美術室に描かれた椿は、永遠に咲き続ける、私たちだけの秘密の花になった。
私は知っている。彼女がどこにも行かないように、この庭を、この花を、私がずっと守り続けることを。
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