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ようやく、仕事の話しを始めようと机の前に椅子をふたつ並べて座った。
デスクトップパソコンに液晶タブレットが接続されている。
先生は、イラストの制作現場を見るのが面白いらしく、液晶タブレットに興味深々の様子。
「ここに書いて、PCで見られるの?」
いきなり液晶タブレットで大変かな?と思いながらも、ソフトを使いキャンバスを新たに起こした。
「どうぞ、好きな絵を描いてください」
「えっ!いいの?」
ペンを渡すと朝倉先生が悩みながらペンを動かし始めた。にわかイラスト教室の開催である。
朝倉先生は、ペンタブレットの上にペンを動かすが思うようにいかないのか悪戦苦闘している。
筆圧感知タイプだから、力が入れば太い線になる。逆にスッと軽く動かせば、細い線だ。慣れるまで、真っすぐに引いた線も手振れが出たりする。
「修正も利きますから気楽に描いてください」
「難しいなぁ」
ブツブツ呟きながら、子供のように目を輝かせキャンバスに向かう。私は、その様子を微笑ましく眺めていた。
暫くすると「ああっ!」と、声をあげ、何やら焦っている。
「朝倉先生、ココの矢印を押せば、1つ前に戻れるんですよ。後は、消しゴムがコッチで……」と指をさしながら説明。
「ね。カンタンでしょう?」
と、先生の方へと振り返ると、今にもキスをしてしまうぐらい顔が近づいてしまっていた。
びっくりしすぎて目を見開いたまま固まってしまう。
朝倉先生からの漂う、ウッディーなフレグランスの香りに鼻腔をくすぐられ、心臓の鼓動が朝倉先生に聞こえてしまうのでは?と、思うほどの近い距離だ。
焦って、後ろへ跳ね除いた。
「す、すみません!」
「いや……こちらこそ……」
わざとじゃないにせよ、顔を近づけてしまった。
気まずさと恥ずかしさに言葉が詰まる。
私達は、大人だ。たとえ唇が触れてしまったとしてもお互いファーストキスでもないし、事故だと認識出来る。
けれど、仕事相手で、恩人でもある朝倉先生と唇を触れ合ったら、平静ではいられず仕事に支障出そうな自分が怖かったのだ。
今は、美優との生活を守ることが第一に考え、行動していかなければならない。
たとえ、思わぬ距離に自分の心臓が跳ねたとしても気が付かないフリをするをするのが正解だと思う。
朝倉先生は、再びペンタブレットにイラストの続きを書きはじめた。
そう、こんな事故は、無かったことにするのが一番だ。
そもそも、私のようなシングルマザーの女が、恋心を抱いたとしても、ザ・パーフェクトな朝倉先生に迷惑なだけじゃないか。
朝倉先生と出会った時は、出産という特殊な環境下だった。大変な状態を助けてくれたのだから『特別』を感じてしまうのは、仕方のない事。あの日のヒーローが朝倉先生だと知って、何かベクトルの向きが変わり出したとしても、憧れは憧れとして胸の奥底へ置いかないといけない。
勘違いしたらダメだと自分自身に言い聞かせる。
PCに目を向けると、イラストが描き上がったところだった。
そのイラストは、子供の落書きのような可愛いらしいものだ。
なんだろう? 画伯クラス……。
ネコ?ライオン?イヌ? 微妙な動物らしきイラスト。
朝倉先生のパーフェクトなイメージと違っていて、ギャップに萌える。
「朝倉先生、個性的なイラストですね」
「あはは、言葉を選んだね。絵は苦手なんだ」
子供のように屈託のない笑顔を見せられ、魅力的な素顔にまた心臓が跳ね出す。
イケメンの無邪気な笑顔など間近に見るものじゃない。
高鳴る胸の鼓動を隠すように、朝倉先生から視線を外し、仕事に気持ちを切り替えた。
PCに提出用のイラストを立ち上げ、実際に画面を見ながらレイヤーを重ねて配色や変更点を話し合う。
朝倉先生もイメージがつかめやすいのか、いつも曖昧な指示が、具体的なものに変わり、打ち合わせはスムーズに終わった。
携帯ショップでたくさん遊んでもらった美優は、お利口さんにスヤスヤ眠っている。
朝倉先生はベッドに眠る美優を覗き込むと優しい眼差しを向けた。
「いい子だね。ママに似ている」
娘が産まれた瞬間に立ち会ってくれたヒーローの優しい瞳が、私の方を向く。
ただ、ドキドキと早くなる心臓の鼓動を聞きながら、その瞳を見つめていた。
「ありがとうございます。私の宝物です」
朝倉先生の唇が動く。
「また、来ていいかな?」
「はい」
夢見心地で返事をしていた。
朝倉先生を見送り、玄関に戻ると体の力が抜けて、ヘナヘナとへたり込んでしまった。
ジェットコースターのような一日だった。
娘と一緒に大泣きしたと思ったら、朝倉先生が現れて、先生があの日のヒーローだったなんて……。
そして、朝倉先生の優しさに触れる度、心臓がドキドキと跳ねる。
ああ、もう! アラサーにもなって何を言っているの!
万が一にもザ・パーフェクトの朝倉先生となんて、あるわけないんだから、憧れと恋心を間違えたりしない。
心に硬い鍵を掛けよう。
「さあ、今のうちに仕事!仕事!」
両手で頬をパチンと叩き、気合を入れて立ち上がる。
仕事をするためデスクに向かい、PCを立ち上げ、アプリを起こす。PC画面のギャラリーの中にあるイラストを選ぶ時、朝倉先生の書いたイラストも表示されていた。
その子供の落書きのようなイラストを眺めていると、ふと、朝倉先生と顔が近づいた記憶がよみがえる。
鼻腔をくすぐるウッディーな香りが漂う近さ、間近に迫った顔。
思い出すだけで、ドキドキと心臓が跳ねる。
なるべく考え無いようにと思っているのに、気を抜くとホワホワと朝倉先生の事を考えている。自分では制御不能な状態で、朝倉先生の事で頭が一杯になっている。