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梅雨
仕事を辞めてから、
曜日の感覚がなくなった。
夜が長いのか、自分が薄くなったのか、
分からない。
会社では理不尽に怒鳴られて、
一日の三食は絶対おにぎり。
あんな所辞められて正解だとは思う。
でも何故かもどかしい。
あの怒鳴り声を聞かなくなってから。
聞こえるのは時計の針の音だけ。
人は何かをやめると自由になるらしいが、
実感はなかった。
空いた場所に、理由の分からない不安が溜まるだけだ。
路地は湿っていた。
昼に降った雨の名残が、アスファルトを黒く光らせている。
自分の足音がやけに大きく聞こえた。
向こうから、若い影が歩いてくる。
金髪。制服でも私服でもない、曖昧な格好。
目が合った、その一瞬。
胸の奥で、危ない感情が跳ねた。
説明できない。怒りでも、憎しみでもない。
ただ、何かを壊せば静かになる気がした。
……せめてこのガキでも。
一歩、出かけたところで、世界が薄くなる。
ここから先は戻れない、そんな線が見えた。
水たまりに写っている醜い自分を見た。
そこで気づいたんだ。初めて。
ああ、
俺は片手に鋭い刃物を持っていたんだと。
あのガキを壊して、俺は助かるんだよ。
いいんだろ?
これが俺の望んでいることなんだろ。
ガキに向かって走り出した。
無意識に。
俺の眼中にはあのガキしか見えてない。
「……なあ、おっさん」
声が飛んできた。
軽い。思ったよりずっと軽い。
「今日から期間限定でコンビニに謎味の肉まんでてんの。
奢ってくんね?」
「……は?」
俺は咄嗟に言葉を放った。
そのどうでもよさが、
張り詰めた空気をずらした。
コンビニは、白い光で満ちていた。
自動ドアが開く音が、合図みたいだった。
棚に並ぶ商品は、全部同じ顔をしている。
安心するほど、無関心だ。
「 え”っ!?売り切れですか?! 」
どうやらあの肉まんは売り切れだったらしい。
ざまみろ。ガキ……
俺は缶コーヒーを手に取る。
会計後、金髪のガキはアイスを二つに分けて片方を差し出してきた。
「早くしろよ。溶けるから。」
断る理由が見つからず、受け取った。
「学校は?」
聞いてから、余計だったと思う。
金髪は肩をすくめた。
「行ったり行かなかったり。どうでもいい」
どうでもいい、という言葉に、嘘はなかった。
それが少し、羨ましかった。
懐かしいベンチに座る。
アイスの棒が、ゆっくり濡れる。
沈黙は長いが、気まずくはない。
「仕事、やめた」
自分でも驚くほど、あっさり出た。
まるで魔法みたいに。
金髪は、へえ、とだけ言った。
「で、どうすんの?おっさん。」
「分からない」
「ふーん」
評価も、助言もない。
こんなの、俺もガキみたいじゃないか。
ただ、その会話が懐かしく思える。
ただ、夜が続く。
コンビニの灯りが、二人の影を短く切る。
風が吹いて、空き缶が転がった。
「さっきさ」
金髪が言う。
「顔、やばかった」
何も言い返せなかった。
否定も、肯定も、できない。
「でも、今はマシ」
それだけ言って、アイスをかじる。
白い息が出た。
今日は時間が、少しだけ進んだ気がした。
世界は相変わらず重いが、今夜は越えられる。
理由はない。
ただ、そう思えた。
金髪と別れる時、名前は聞かなかった。
聞かれもしなかった。
それでいい。
角を曲がる前、金髪が手を振る。
軽い。さっきと同じだ。
俺も振り返そうか迷った。
迷った?迷ったってなんで迷ってんだよ。
あんな金髪のために、俺の時間使って……
自動ドアの音が、遠くで閉じた。