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人とは想像力が豊かなものだ――安酒のアルミ缶を握りながら、男は誰に聞かせるわけでもなく呟いた。秋風がかすかに窓を揺らし、雲が満月を覆い隠す夜。風流な感性を持つ者なら詩の一つでも詠んでいるのだろうが、彼はその人並みな感性を己への戒めと恐れにのみ向けていた。
男はどこにでもいる凡庸な大学生である。自宅と学校を往復し、友人と他愛ない話をし、休日はアルバイトで家を空ける。波はないがだからこそ穏やかな学生生活を謳歌している。いや、正確には「していた」と形容すべきか。いつからか男の脳に芽生えた加害妄想が、彼の毎日に暗い影を落とすようになった。
来る日も来る日も他人に危害を及ぼす光景が頭を離れない。それは記憶から生み出されたものではなく、彼自身がそんなことを望んでいるわけでもなかった。それにも拘らず、周りを傷つける自分の姿がそこにはあった。男は自分という存在を恐れた。心の底で暴力的な生活を望んでいるのか。間違っても外に出してはいけないような社会不適合者なのではないか。逡巡を繰り返すほど暗雲は分厚くなっていく。気が付けば、逃げるように酒を飲む習慣がついていた。
飲み始めてすぐの頃は、男にとって最良の結果を酒がもたらしてくれた。アルコールが体を満たしている間だけは、何にも悩まされなかった昔の自分に戻れる。その感触が醒めない限り、大学生らしく余暇や趣味を心から楽しむこともできた。だが彼の体は酒に順応していき、少しずつ解放感を味わう時間が短くなっていった。量を増やし、種類を変え、男は酒を飲み続けた。否、飲まれていたという方が適切だろう。酒が抜けた後に襲い掛かる脳内の怪物を、彼は病的なまでに恐れるようになった。
迫りくるのは加害妄想だけに留まらなかった。ひどい寂寥感が彼を包み込んだ。逃げるように眠りについても、目覚めれば同じ景色がそこにある。自殺を企てたことも何度もあったが、死への恐怖は捨てられず浴びるように酒を飲んでベッドへと沈む日々であった。
もはや酒のない生活が考えられなくなったある日、男は自室の棚からボロボロになったノートを見つけた。おそらく百均製であろうチープな表紙の真ん中には、乱雑な字で「夢日記」と書き殴ってあった。男は詳細を思い出せず訝しんだが、すぐに思い当たる節にたどり着いた。まだ高校生だった頃に興味本位で夢日記をつけようと思い立ったが、寝起きに日記をつけることが億劫になりすぐにやめてしまったことだ。
過去の自分がどんな夢を見ていたか知りたくなった男は、古ぼけた表紙をめくった。しかし当人の回顧の通り記載のあるページは数えるほどしかなく、めぼしい情報は何もなかった。
当然ながら何の感動もなく彼はノートを棚に戻そうとした。すると、裏表紙の隅に小さな文字で何かが書かれているのを見つけた。
「ここまで書き上げたなら、お前は正気を失っている」
無機質な警告は男にもう一つの記憶を呼び起こした。夢日記をつけ続けると、現実と夢の区別がつかなくなり■■■するという風説。いわゆる都市伝説の類だが、男にとってはこの上なく魅力的な提案に見えていた。
不幸中の幸いと言うべきか、彼の妄想は夢までをも染めてはいない。男は気づいた。夢は自分にとって最後の逃げ場所なのではないか。出口の見えない現実の闇を、夢によって中和することができるのではないか。たとえ死のリスクが伴うとしても、痛みを伴わずに死ねるならやぶさかではない。傍目に見れば我儘な自殺願望とも言えるそれに背を押されるように、彼は夢を見ることに飢え始めた。男の人生の中で、初めて「睡眠」が救いになった日であった。
夢を見るためには安眠が欠かせない。ベッドを伸長し、アロマを買いそろえ健康的な生活習慣を心掛けるようになった。事情を知らない人間が見ればさぞ活力のある若者に見えるだろう。しかしその実は、あまりにも破滅的なゴールへと歩き始めたばかりである。そんなギャップがあるなど太は露知らず、男は夢に狂うために時間を使う。そして迎えた最初の夜。久方ぶりに晴れやかな気持ちで男は横になっている。どんな夢を見るのか。聞けば鬼が笑うような空想を広げながら、男は意識を手放した。
男は和室の中にいた。実家の見慣れたそれとは違い、窓の外には小さな露天風呂があった。そこからの景色は美麗の一言に尽きるもので、水平線を月明かりが彩っている。部屋の主はせっせと服を脱ぐと、湯船につかって夜景を独り占めしはじめた。こんな贅沢は人生で何度できるだろう。彼は物思いに耽りながらゆっくりと体を癒していた。
風呂から上がってぼんやりしていると、襖の向こうから女性の声。料理を運んできたようだ。高級食材をふんだんに使っているらしい。男は命への感謝を示す合掌の後、男は料理に手を付け始めた。
豪勢な旅が夢の中での光景だと知らせたのは、スマホの目覚ましアラームだった。二度と味わえることはないであろう贅沢に未練を覚えながら、眠気冷めやらぬ中で男は日記をつけた。
「○月×日 今日は旅に出ていた。温泉、景色、料理、何をとっても最高の宿だった。現実でも行ってみたいが、晩年金欠の自分位は夢のまた夢だろう。心なしか小学生の時に家族旅行で訪れた旅館に少し似ている。」
それからしばらくは、遠出を見る夢をよく見るようになった。既視感のある場所であったり、知らない場所であったり、はたまたファンタジー小説の世界に飛び込んだような場所であったりと様々であった。夢の中でならどこへでも行ける。その充足感と新鮮さが男に安らぎを与えていた。そんなある日男が見た夢は、少しだけ毛色の違うものだった。
そこは魚市場に酷似した空間だった。海産物特有の匂いに満たされた建物の中で、男は魚が解体されるさまを群集に紛れて見物していた。どの部位が一番うまいのだろう、などと考えていると、周囲のざわめきが一気に止んだ。どうやら山場に入ったらしい。職人が大きな魚を三枚におろすと、歓声が湧き上がった。
彼も手放しでその様を喜んでいたが、少しずつ笑顔が消えていく。血を抜いているはずの身から、少量の赤い液体が流れだしている。その量はまるで決壊したダムのように増していき、やがて作業台は紅に染まった。男は辺りを見回したが、群衆の後ろの方にいたため周囲の人間の顔は見えなかった。その異常さに気が付いているのは己一人だということはかろうじて理解していた。解体ショーを見物できた感動は大きなものだが、拭いきれぬ不安が彼の背筋を撫でていた。
そんな不安はアラームによって消し飛ばされた。ダイナミックな包丁さばきに目を奪われていたことは鮮明に思い出せるが、同時にあの地だまりが頭を離れることもなかった。
「△月□日 今日は魚がさばかれる様を見ていた。あれを目の前で見る機会は一生のうち何度あるのだろう。それにしても、あの大量の血は何だったのだろうか。仮にあの刃物で人を斬ったらと考えるとぞっとする。」
その日から、男の夢には血液が見え隠れするようになった。シチュエーションは千差万別だったが、決まって視界のどこかを深紅が占めている。夢が暴力を暗示していることに彼は恐怖を抱いた。だが楽観的な視座なくして明るい夢は見られないと、暗い情緒を殺して眠りにつく日々が続いた。
男は迷宮の中にいた。決して比喩ではなく、複雑怪奇な世界を右往左往している。出口を探して歩き続けるが、一向に出口らしきものが見つからない。壁や床、天井には血痕が点在しておりその場所で何が起きたのかを物語っている。一刻も早くここから出たい、と男は憔悴している。何度も同じ場所を廻っているようにすら思え始めたころ、男は曲がり角の先に一瞬だけだが人影を見た。自分以外にも迷い込んだ者がいるのか。わずかに希望を見出した彼は、人影を追って走り始めた。
幸いにもその区間は分岐が少なく、余裕をもってその背を見つけられた。近づいてみるとその背格好は男によく似ていた。それがわかった時、彼はなぜか声をかけることがためらわれた。何か関わってはいけないような、禁忌に触れようとしているような本能的な危機を感じていた。やはり一人で出口を探すべきか。男が踵を返して立ち去ろうとした、その時。
「目を逸らすな」
彼の動きが止まった。声の主は、男の背後から語り掛けている。頭の中はその場から立ち去ることでいっぱいだったにもかかわらず、振り返らずにはいられなかった。謎の人物はゆっくりと男の方に向き直っている。絶対に顔を見てはならないという直感的な理解と、顔を見てみたいという本能的な好奇心が男の中で同居している。逃げなければならないのに逃げたくない。やがて、その風貌が男の瞳に映り――。
その双眸が捉えたのは、真っ白な天井だった。彼は顔を見る直前で、夢から抜け出したらしかった。脂汗で前進が濡れており、うなされていたことが傍目に見てもわかる。男は震える手でペンを取った。
「×月△日 今日は悪夢を見た。追いかけていたはずが追いかけられているような錯覚に支配され、まるで深淵を覗いているような気分だった。あの迷路もどこかで見たような気がする。あれは夢か?それとも記憶か?まるでわからない。」
悪化の一途を辿る夢の酷さとは裏腹に、男自身の生活は今まで以上に充実したものになっていた。友人の誘いで新たな趣味に興じるようになり、それがきっかけで恋人ができた。さらに、アルバイト先での功績が認められ正社員への昇進が確定した。順風満帆とも言えるこの変化によって男の精神状態は幾分かましになり、加害妄想に支配されることも減っていった。
そんな幸せを噛みしめていた男は、やがて夢日記をつける必要性を疑い始めた。もともと強引な精神療法として用いていただけであり好き好んでやるほどの思い入れはない。加えて、最近は夢見が悪い。夢よりも現実の方が幸せなのだし、ここらでやめてしまおう。死にたいと思う理由もないし。彼は以前より度数の低い酒をあおりながら、そんなことをぼんやりと考えていた。以前より酔いが回るのが早くなったのか、缶を二本空ける頃にはすっかり眠ってしまっていた。
目が覚めると、そこは薄暗い部屋だった。広さ、家具、電灯。何をとっても自室ではない。ここは一体どこなのか。男は周りを見渡した。彼が出ているベッドはカーテンに囲まれており、病室を想起させる。少なくとも医者の世話になるような失敗をした覚えは男にはなかった。
状況を把握するため男は病室の外へ出た。瞬間、彼は言葉を失った。本来純白であるべきはずの四面は血のように赤く、彼が最も恐れる暴力の象徴と同じ色であった。その色使いに戦慄しながらも、男は院内の探索を始めた。どの部屋も扉が閉められておりその向こうから人の気配はまるでない。ナースセンターと思しきスペースも無人で、明かりすらついていない。ここには何もヒントはなさそうだ。出口を目指すなら下の階に降りた方がいい。そう考えた男は、階段を探すことにした。
下の階へと降りた男は、扉の上にランプがついている部屋を見つけた。手術室と思しき一室はなぜか扉がガラス張りで、中には手術用の服を着た人物が一人で手術台のそばに立っている。台の上には人が寝ているようだが、顔はよく見えない。
手術と言うにはあまりにおかしな光景に男はしばし目を奪われていた。あの医者らしき人物はあの場所で何をしているのか。そもそもなぜ外から丸見えである扉に守られているのかもよくわからないし、手術にしてはどう考えても人が少ない。何を思ってあの場所に突っ立っているのだろうか。
男が尽きない疑問を頭の中で巡らせていると、医者は台の上で寝ている人物に突然メスを突き刺した。一度だけに留まらず、体中を滅多刺しにしている。猟奇的行為は留まることを知らず、顔を殴り、目を抉り、髪を剃り、臓器を刻む。ありとあらゆる方法で死体を弄んでいる。一介の大学生にはあまりにも刺激的な惨劇だったらしく男は嘔吐しかけるが、同時に既視感をも感じていた。現実で彼を悩ませていた加害妄想の内容と全く同じであったからだ。
偶然と呼ぶにはあまりにも悪辣な一致に彼は全身の毛が逆立った。さらに、医者は自らが繰り広げた暴虐に興奮したのか、死体という名の肉塊を抱き起した。男は声を出さずにはいられなかった。その肉塊はひどく傷を負っているが、間違いなく己の恋人と同じ顔をしていた。彼の嫌な予感は確信に変わった。自分の脳内だけで完結していたことをあの医者が形にしてしまっている。ということは、あの医者の正体は――
そこまで推測したその時、返り値まみれの愉快犯がゆっくりと顔を上げた。男の声に反応したようだった。瞬間、手術室の扉を勢い良く蹴破って飛び出してきた。意図せず目撃者になってしまった男は、パニックに陥りながらも下の階を目指して駆けていく。もと来た道を辿って階段を見つければいいのだが、代わり映えのしない深紅の回廊でそれをやるのはあまりにも困難であった。
それに加えて、手術衣の人物は男よりも足が若干早い。ただ走るだけではいずれ追い付かれると考えた男は、可能な限り視界から外れるようなルートをとりつつ隠れる場所を探していた。いくつか角を曲がると狂人の足音は幾分か遠ざかった。男は鉄の扉で守られた部屋へと飛び込んだ。
そこがあの医師の根城であるということを理解するのに、さほど時間はかからなかった。寝台に拘束された人物が両手で数える程度におり、殺す順番を表すかのように数字が書かれた札が寝台の策にぶら下がっていた。
ここに隠れることはどう考えても得策ではない。男はすぐに出ようとしたが、部屋の奥にある凶器が所狭しと並べられたデスクを見てしばし固まった。奴の不意を突いて、その首をかき切ることができるのなら。心臓を停止させることができるのなら。そう思った時には、彼はメスを右手で握って机の影に隠れていた。あれにとどめを刺さない限り、自分は悪夢の輪廻から逃れることは出来ない。殺意にも似た強迫観念に男は支配されていた。
そのチャンスはほどなくして訪れた。鉄の扉が不快な金属音と共に開き、手術衣の人物が入室した。室内にいる次のターゲットを一瞥したのちゆっくりとデスクの方へ歩いていく。男は息を殺し、限界まで距離が縮まるのを待っている。
すると、医者は何かを思い出したように拘束具つきのベッドの方へと向き直った。どうやら誰にするか品定めしているようだ。男に気づく様子はない。意を決し彼はデスクの影から飛び出した。血のついていないまっさらなメスを構え殺人鬼へと突進していく。背を向けている奴に反撃するチャンスはない。男は勝利を確信した。
病室と呼ぶにはあまりにも嗜虐的な一室の床を、鮮やかな血液が彩っている。人命を救うための刃物は人命を奪わんとする者によって凶器と化した。体を裂かれた人物は、崩れ落ちるように膝を折る。
痛みが、出血が止まらない。今まで自分がしてきたことの報いなのか。男は医者を見上げながら走馬灯を見ていた。背を刺そうとしたその瞬間、愉快犯は後ろ手で持ったメスで男の腹を切り裂いていた。この部屋で唯一加害者に属する人物は、あきれるように振り返って言葉を発した。
「お前の考えていることなど筒抜けだ」
なぜこの計画が露見したのか。痛みに耐えながら男は思考を巡らせていた。突然、医者は手術帽とマスクを乱雑に取った。彼にとっての答え合わせがそこにはあった。医者の顔は、男と全く同じつくりをしていた。
「お前は気づいていた。夢が侵されていることに。だからあの時忠告してやった」
医者は続ける。男はかつて見た夢を回顧した。迷路に閉じ込められた夢。あの時奴の顔を見るまいと恐怖していたのは、夢という理想郷すら己の醜悪な本性に染め上げられていることに気づかないふりをしていたからだ。手術室の前で固まっていた時もそうだった。
男が過去の自分に苦虫を食い潰したような顔をしていると、医者は拘束された人々のマスクを取り外し、男に顔を見るように促した。どの人物も男の見知った顔ばかりであった。
「これがお前の底だ。どれだけ取り繕ったところで、どれだけ逃げたところで、暴力を望む感性を捨て去ることは出来ない。変われるかもしれないなんて、自分に夢を見た結果がこれだ」
メスよりも鋭利な言葉で男の精神をも抉っていく。心身ともに深刻な傷を負った彼は、それでも逃げることをやめられなかった。
自分は誰も傷つけてはいない。全部あいつがやったことだ。じゃああの死体は何だ?全部あいつの身の回りで起きたことなら、自分は少しも幸せになどなっていない。現実だと思っていた光景は全て届かぬ幻だったのか。男は夢現を交えながら、もうろうとする意識の中で、自身の存在が音を立てて崩壊していくさまをひしひしと感じていた。
「まあ、その傷じゃもう助からない。苦しまないように介錯してやる。そうすれば、永遠に夢を見られるぞ」
悪魔の囁きが男を誘う。だがここでそれを呑むということは、本能に支配されるのを受け入れるのと同義だ。最期の維持とばかりに首を振る。真実を受け入れようとしない愚者にも、自身の闇に立ち向かう勇者にも見える。
「なら自殺でもするのか?我が身可愛さで安易な選択しかしてこなかったお前が」
メスを持つ右手が震えているのを見て医者が嘲る。何度も挑戦し、何度も死に損なってきた男にとっては考えられない選択だろう。だがこの嘲笑が、皮肉にも彼を焚きつけた。男はメスを首に突き立てると、
「目を逸らすな」
と吐き捨て、脈を裂いた。
桜の蕾が開く頃、とある一軒家にて自殺者が発見された。自室にて仰向けに倒れており、当事者は刃物で己の脈を切断していた。葬儀には親族のほか、友人や恋人も参列していた。自室の 机の上には開かれたままのノートが置かれていて、端から端まで当事者の血で赤く染まっていたという。