コメント
1件
あらら。
王都エスパハレの実家へ戻っていたクラリーチェ・ヴァレンティナ・モレッティが、ニンルシーラ領ヴァン・エルダールのライオール邸へ帰ってきた。
弟の大怪我に駆けつけてから、数か月ぶりのことだった。
その間リリアンナは、ランディリックや執事のセドリック、侍女頭のブリジットに教えを受けながら学びを続けてきた。けれども、どれも皆の仕事の合間を縫ってのことに過ぎず、クラリーチェがつきっきりで導いてくれた頃に比べればどうしても遅れ気味で、不安が残っていた。
だからこそ、玄関先に立つクラリーチェの姿を見た瞬間、リリアンナは堪えきれずに駆け寄ってしまった。
「先生……! おかえりなさい!」
小さな身体で子犬のように飛び付いてきたリリアンナを抱きとめながら、クラリーチェは驚いたように目を見開き、それからやわらかに微笑んで、その髪を撫でた。
「まあ、これはレディにあるまじきお転婆ぶりですね」
「あっ」
――少し見ない間に令嬢としての振る舞いを忘れてしまったのですか?
そう言外に含ませられた気がして恐る恐るクラリーチェの顔を見上げたリリアンナだったのだけれど――。
「元気そうで安心しました」
存外柔らかな微笑みを向けられていてホッとする。
「私がいない間に、何か変わったことはありませんでしたか?」
そんなクラリーチェから問い掛けられた言葉に、リリアンナはパッと瞳を輝かせた。
「聞いてください先生! クラリーチェ先生が王都へ旅立たれてすぐ、厩舎にオオカミが出たんです! それで私とナディエルを守ろうとしてくれたカイルが大怪我をして……!」
「まあ……!」
リリアンナの息もつかせぬ物言いに、クラリーチェは碧眼を大きく見開いた。
「それで今、カイル様のお怪我は……」
眉根を寄せるクラリーチェに、リリアンナがフフッと笑う。
「大丈夫です! もうすっかり元気になって、馬のお世話を頑張ってます!」
「それは良かった……」
安堵の息を吐くクラリーチェに、リリアンナはさらに声を弾ませる。
「それにね、先生。馬といえば……私、ランディから馬をいただいたんです! ライオネルっていう名前のそれはそれは美しい男の子で! すっごく大人しくて頭のいい子だから、私、もう少ししたら一人で乗れるようになれそうです!」
クラリーチェの顔を見上げて誇らしげに胸を張るリリアンナ。何なら身振り手振りで馬に乗る素振りさえ見せる。
だが、そんなリリアンナの言葉を聞いたクラリーチェの表情は一瞬で強張り、すぐそばに控えていたランディリックへ咎めるような眼差しを向けた。
「……侯爵閣下様。どんなにおとなしい馬でも、一人でお乗せになるのは危険です。どうかお願いします。あなた様が一緒に乗って、後ろから支えてさしあげてください」
毅然とした声。その奥には夫を落馬で失い、弟を事故で危うく失いかけた記憶が刻まれているのがありありとうかがえた。
それが分かっているからこそ、ランディリックは静かに頷き、「承知しています」とだけ答える。
リリアンナはそんな二人のやり取りを見つめながら、胸の奥に小さなざわめきを覚えた。
(クラリーチェ先生のおっしゃることも分かるけれど……私、もうちゃんと練習してるのに。どうしてランディは「リリーなら大丈夫だ」って言ってくれないの?)
誇らしさはしゅるりと萎み、リリアンナの形の良い唇をきゅっと結ばせた。