「そう、専門的。あるいは特化した吾妻勇信だ」
巨大なガラス窓の中でふたりの目が合った。
「ゆっくり聞かせてもらおう」
ジョーを見つめるもうひとりの勇信は、窓から離れてウイスキーを飲み干した。
「さっきおまえと戦って気づいたんだが、俺は肉体が強化された俺だ。体力が限界に達していたにもかかわらず、俺はKO勝利した。しかもおまえの攻撃に対し、まるで恐怖を感じなかった」
「途中まで俺の攻撃に押されてたじゃないか」
「防御しながら、いろんなことを考えていたんだ。体の奥から湧き上がるこの力の正体は何なんだってな。ドーピング薬を服用したような気分だった」
ジョーが突然その場で腕立て伏せをはじめた。
「なにやってんだ」
「……まだトレーニングし足りなくてな。俺はさらに自分の体を鍛え、より精度の高い格闘スキルを習得し、誰にも負けない男になりたいと思っている」
ソファーでウィスキーを飲む勇信は、腕立て伏せをするジョーの上腕を見つめた。
「最初に現れた時、なんでおまえは裸だったんだ?」
「答えを知ってるくせに、いちいち問いかけてくるなよ。俺は腕立て伏せで忙しいんだ」
「俺たちは……増殖、あるいは分裂した」
「だろうな」
「細胞が増殖や分裂するように、別の俺が生まれた。おまえが全裸だったのは、トレーニングウェアはただの布であって、俺個人じゃないからだ。つまりまったく同じ吾妻勇信がふたり……」
「まったく同じだって? 違うだろ」
「どうしてだ?」
「聞いてなかったのか? 俺はおそらく、専門的な俺だ。肉体を強化させた吾妻勇信だ。一度折れた骨が強度を増すように、単に増えたんじゃなく、肉体機能が向上したんだよ」
「まさか、優位性を論じたいのか?」
「当たり前だろ。KO勝ちしたの、どっちだと思ってんだ」
「単なる運動能力の差だけで、上位互換を主張するつもりか。となると、上位ではなく野蛮人に成り下がったとしか判断できないが?」
「無駄な言葉遊びをするつもりはない。とにかく重要なのは、俺はふたりいてこの奇妙な状況について一刻でもはやく知らなきゃならないってことだ」
ふぅ、と同時にため息が漏れた。
「リアルな話……ベッドとかどうするよ? 一個しかないのにどうやって寝るんだ」
「ベッドどころか、歯ブラシに食事にその他何もかも……これどうするんだ」
「使用人含め、誰も立ち入れないようしておいたからな。これからは自分で解決してかないとだな。どうすればいいかまったくわからん」
吾妻財閥の次男坊……。
身の回りのものなど、気にしたこともない人生だった。
日用品はどこで売っているのか。
どう購入すべきか。
そんなことすら知らず、またそれについて考えると、頭が混乱してしまう。
沈黙の中、ふたりはこめかみをぐりぐりと押した。
そして不意に声が重なった。
「……それと、兄さんのこと」
「……それと、兄さんのこと」
声が重なると同時にふたつの手が挙がった。
発言権を持つ勇信が言った。
「兄さんは間違いなく、殺人事件に巻き込まれたはずだ。海が好きでもないのに、ひとりで断崖絶壁まで行って自殺するなんてあるはずがない」
「真実を突き止めなきゃな。どんな手を使ってでも」
「それならなおさらのこと、今の状況を前向きに考えるべきだな」
「ああ、俺たちはふたりになった。増殖か分裂かわからないが、とにかく否定できない現実に直面している。なら、おおいにこれを利用するしかないだろう。
ひとりはこれまで通りビジネスに集中し、もうひとりは兄さんの事件を調査すればいい」
「仕事は無理だ。おまえががんばってくれ」
床に寝そべったジョーが言った。
「どうしてだ?」
「俺は増殖して何かが変わってしまった。肉体的にも、精神的にも」
「精神?」
「正直なところ、会社の業務に対する情熱を失ってしまった。……と言うよりは、兄さんを死に追いやったヤロウを絶対に探し出すという決意に満ちている」
「おまえもやはり殺人事件だと踏んでるんだな」
「同じ俺だから、そりゃそうさ。兄さんが家族やグループを捨てて自殺するわけがない」
「わかった、なら業務は俺が担当しよう。役割分担をめぐる言い争いにならなくて幸いだ」
「ちょっと頭をすっきりさせたいから走ってくる」
ジョーはそう言って立ち上がり、ガラス窓で自らの肉体を確認した。
それからちらりともうひとりの勇信を確認し、うすら笑いを浮かべてトレーニングルームに向かった。
「……」
残され勇信はウィスキーを飲み干し、テーブル上のタブレットPCを起動させては、置かれた状況を整理しはじめた。
「まずは来訪者を制限する。何人たりとも、家に入れるわけにはいかない。次に使用人がしてきた業務をすべて割り出さねば。日用品の補充や清掃、洗濯なんかもこれからは自分でやらなきゃだからな……」
あまりにも対応すべきことが多く、それ以上何も考えられなかった。
勇信はタブレットPCをソファに投げ捨て、ウィスキーを2杯連続で飲み干した。
「どうしてこんなことになってしまったんだ」
不安が全身をとりまいた。
耐え切れず携帯を手にして、大音量でクラシック音楽を再生させた。
ロベルト・シューマンのトロイメライ――。
兄が好きだった曲だ。
アルコールのせいだろうか、また涙がこぼれそうになる。
それを止めるため、さらなるアルコールを継ぎ足して飲んだ。
しかし思考が乱れるにつれて不安は増すばかりだった。
葬儀からまだ3日。
本格的な混乱と悲しみは、ここからはじまるのかもしれない。
「増殖によって気が紛れていただけ……。ひとりになるとまた胸が痛い……」
勇信はソファに倒れ、目を閉じた。
体内を巡るアルコールによって、頭の中がぐるぐると回っている。
ドン!
突然、床から衝撃音が鳴った。
ぐうぁ……!
誰かが苦しそうにうめいた。
目を開け確認すると、ひとりの男がソファの下に倒れている。
「おまえは……」
勇信の真下には、全裸の男が転がっていた。
新しい吾妻勇信の誕生であった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!