東京大学に合格した瞬間、私の中には言葉では言い尽くせない達成感が広がった。しかし、それに続いてやってきたのは、一種の優越感だった。長い間努力を続け、困難な道を歩んできた自分が、ついに頂点に立ったという感覚が、心の奥底に芽生え始めた。
それは、周囲の人々が自然に私に向ける尊敬の眼差しからも感じ取れた。両親の誇らしげな表情、友人たちからの称賛、教師たちの賞賛の言葉――これらすべてが、私の自尊心を大いに満たしていった。「あの伊藤が東大に入ったらしい」という噂が広まり、同窓生たちの中でも、私が一目置かれる存在になっていった。これまで自分を軽視してきた人々が、私を認めざるを得なくなったことは、心地よい勝利のように感じた。
それでも、優越感というものは、危ういものであることをすぐに理解することになった。私は自分が「特別な存在」だと信じ始めた。自分の努力が報われ、他者とは異なる道を歩んできたという事実が、自分を少しずつ高みに持ち上げ、他者との距離感を感じさせるようになったのだ。
新しく始まった東大での生活でも、その優越感は最初のうちは強かった。入学式の日、自分がここにいることが当然だと感じ、他の新入生たちと同じ場所に立っていることを誇りに思っていた。日本の最高峰に立っている、ここにいることができるのは自分が特別だからだ、と。
しかし、東大での学びが始まるにつれ、優越感は急速に揺らいでいった。自分が特別だと思っていたはずの場所にも、自分以上に才能に恵まれた人々や、努力を重ねてきた者たちが数多くいた。彼らの知識やスキルの高さに圧倒され、これまでの自分が築き上げてきた自信が、一瞬にして崩れ去ったように感じた。
大学の講義は想像以上に厳しく、周りの学生たちが優秀であったことが、私の優越感を少しずつ消し去っていった。特に数学や物理の講義では、私が一生懸命に理解しようとする間に、他の学生たちはあっさりと問題を解いていく。議論になると、彼らの鋭い思考に言葉を失い、自分の存在が小さく感じられた。
ここにいる限り、私は特別ではない。それが現実だった。東京大学という場所は、私が考えていたよりも遥かに広く、深い世界だったのだ。優越感に浸っていた自分が、急速にその高みから引きずり下ろされるような感覚を味わった。
それでも、心のどこかで私は「なにか」を追い求め続けていた。それは、単なる学歴や称賛では満たされないものだと気づき始めていた。優越感に浸っている間は、真の意味での探求心や自分自身を見つめ直すことができなかった。東大に合格したという事実が、私の探求の終わりではなく、むしろ新たな始まりであることを理解するまでに、少し時間がかかった。
優越感は一瞬の喜びをもたらしたが、それに浸っている限り、私は本当に大切なものを見失いかけていた。人と比べることではなく、自分自身と向き合うことこそが、私が追い求めていた「なにか」に近づく鍵だったのだ。
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