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ブルブルッと胸ポケットに突っ込んだままのスマートフォンが振動して、尽は恍惚とした目で自分を見つめてくる江根見紗英の手首を握る手にグッと力を込めたまま、「失礼」と一言告げて携帯を耳に当てた。
「……ああ、まだ総務課のフロアだ。――悪いがこっちに頼む」
手短かに用件のみで通話を切った尽に、紗英がキラキラと瞳を輝かせて尽ににじり寄って来て。
「高嶺常務~、今のお電話のお相手ってぇ、もしかして秘書の伊藤直樹さんですかぁ?」
尽は今すぐにでも目の前の女を突き飛ばして距離を取りたいのをグッとこらえて、紗英の手首を握る手に力を込めると「ああ」と答えた。
(指先が触れるだけでも胸糞が悪いが、今はまだこいつを逃がすわけにはいかないからな……)
今からここへ来る人物を見たら、紗英は逃げ出しかねない。
当初は自分の執務室での断罪遂行を考えていた尽だ。
だが、紗英自身が同僚たちの前での破滅を望んだのだから仕方がない。
執務室ならば外から出入り口を塞いでしまえば袋の鼠だったのだが、ここ――総務課フロア――だと広すぎてそうはいかないから。
苦肉の策で握りたくもない紗英の手首を掴む羽目になっている尽だが、本音を言うと縄でも掛けてやりたいくらいだ。
「あぁん、高嶺常務ぅ、そんなに力を込められたら手ぇ、痛いですぅ」
手首を握るより肩を抱いて欲しいと自分を見上げて強請る紗英に、尽はいい加減限界だ。
「……職場だからね」
スリスリとこちらへ身体を寄せてこようとする紗英を片手で制すると、(何とかする気はないのか?)という願いを込めてすぐそばに立つ江根見則夫へ視線を投げ掛けたのだけれど。
則夫は、職場内で同僚らの視線を物ともせず婚約者でもない男にあからさまに媚びた態度を取る娘に、何の注意もする気はないらしい。
その愚かさにもほとほと呆れて盛大に溜め息をつきたい衝動に駆られた尽だが、何とかこらえて。
(この馬鹿親にしてこの子ありだと思えば納得だな)
自分を合点させるためにそう思いながらも、先ほど直樹に手配を頼んだ人物の到着が待ち遠しくてたまらない。
腕の中に抱き締めても仄かに甘い香りがする天莉の快さと違って、紗英からは距離を取っていても吐き気がするような強い香水の香りが漂ってくる。
そのにおいが身体にまで移って来そうで、尽は手を洗ったくらいでこの不快感が拭えるだろうかと思って。
自分のすぐ横で、ニコニコとそんな娘を見詰めている江根見則夫にも吐き気がするが、全ては天莉のためと思ってグッと我慢をする。
だがこれ以上紗英にすり寄ってこられたら、さすがに嫌悪感を隠し切れる自信がない。
帰宅後は天莉へ触れる前に、絶対風呂へ入ろうと心に誓った尽だ。
と、やっとフロアの扉が開いて、待ちわびた人物が姿を現して。
尽は視線だけで入ってきた相手にこちらへ来るように誘い掛けた。
***
「よ、横野!? お前、いまさら何をしに来た!」
紗英よりいち早く新たな登場人物に気付いた江根見則夫が大声を上げたのを受けて、紗英もハッとしたようにそちらを見て。
「な、んでっ。博視が総務課へ来てるの!? ずっとお休みしてたんじゃないの!?」
きっと尽の言葉から直樹が来ると思い込んでいたのだろう。
直樹には別に用事を頼んであるので元より姿を現さないことを知っていた尽は、紗英の反応に一人ほくそ笑んだ。
博視と、まだ正式には別れていないからだろう。
直感的にまずいと思ったのか、尽から距離を取ろうとしてきた紗英に、尽は紗英の手首を握る手にわざと力を込めると、逃がす気はないよ?と言外に含ませる。
「ヤダッ。高嶺常務っ! 博視の前でっ、冗談が過ぎますよぅ!?」
計算高い女のこと。
自らの不貞を、今はまだ、博視に見られるのは得策ではないと思ったのだろう。
さも貴方が悪いと言わんばかりの口振りに、尽は思わず鼻で笑った。
「つい今し方、私にしな垂れかかって『肩を抱いて欲しい』とせがんできた女性の言葉とは思えませんね」
ククッと喉を鳴らして手を振りほどこうと必死にもがく紗英を牽制すると、一瞬だけ紗英をグイッと引き寄せて、背後から両肩に手を載せた。
そのまま博視の方へグイッと紗英を突き出すと、
「横野くん、キミは婚約者の江根見さんが流産して、その処置のため入院なさってらしたことをご存知ですか?」
真正面から二人を向き合わせる形にしてそう問いかける。
「え? 他所のお宅へ外泊したって話なら別件で入ってきてますけど……入院してたなんて初耳です。……っていうか紗英、本当に妊娠してたんだ。……だとしたらそれ、ホントは誰の子だったの?」
「な! 横野くん、キミは一体何を言ってるんだね!」
尽の言葉に溜め息混じりで疲れたように話し始めた博視に、則夫が心外だと言わんばかりに噛みついて。
だが、博視は小さく吐息を落とすと、江根見則夫に冷ややかな視線を向けた。
「先日、親睦会の日に来てたアスマモル薬品の人たちがいるじゃないですか。江根見部長の息がかかった二人。――俺、あの人達に言われたんですよ。紗英と寝たことがあるって」
「な、何を言ってるの! 博視!」
紗英が真っ青になって博視の口を塞ごうとしたけれど、博視はスッと紗英から離れると言葉を続けた。
「俺、天莉を陥れるような犯罪の片棒を担がされたことにも……。天莉を振ってまで結婚しようと思った紗英が貞操観念ゆるゆるだったってことにも……結構ショックを受けてさ。天莉は絶対俺以外の男になびくことはなかったし?とか考えたら自分の選択が間違ってたんじゃないかって後悔しまくった」
「そこで俺の天莉を引き合いに出さないでもらえるかね?」
今まで黙っていた尽からの氷のような指摘にグッと押し黙った博視は、「俺の天莉、って……。なんだ、そういうことですか」と小さく吐息を落とすと、則夫にちらりと視線を投げかけて。「……出来もしない出世に目が眩んだ代償は大きいな」とつぶやいた。
「まぁとにかく何か色々イヤになってさ、仕事も休みがちになってたんだけど……わざわざ俺指名で新しい顧客が入ってるって会社から連絡が来て……。気力振り絞って久しぶりに仕事へ出てさ。いざ先方へ出向いてみたら何のことはない。産婦人科を経営してる女医さんから『うちの旦那と貴方の婚約者が不貞行為を働いています』って告発で……彼女の自宅の寝室で行為に及んでる紗英と旦那さんの映像を観せられたんだけど」
「えっ。嘘……。でもあの女医、私には何も……」
「そっか。やっぱり身に覚えがあるんだ」
「ち、違っ!」
「何が違うんだよ。泊まりがけで手術をしたって日だろ? 紗英が浅田先生のご主人と、彼らの自宅でそういうことしたの」
「紗英! それは本当なのかっ!?」
「ち、違う! だって紗英、妊娠なんてしてなかったし……産婦人科なんて行ったことないもんっ! 博視と婚約してからは、博視以外とはそんなことしてないっ!」
「ちょっと待て、紗英っ。お前、妊娠も嘘だったのか!」
紗英の言い訳に則夫が口を挟んだけれど、博視はそんなのお構いなしに続けた。
「おかしいな。浅田先生は紗英が緊急避妊薬をもらいに来たとも話してくれたけど……ウソだったってこと? それとさ、これもアスマモルの二人が言ってたんだけど……紗英、風見課長とも相当仲が良いって。……本当か?」