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「ばっ。バカ言わないで! あんなヒヒ爺となんて、寝るわけないっ!」
「俺、風見課長と寝たなんて一言も言ってないけど?」
紗英がヒステリックに叫ぶ周りで、フロア内の人間たちがヒソヒソと「わぁー、マジかぁ。だから江根見さん、あんなに風見課長に優遇されてたんだぁ」「玉木さんへの当てつけとか凄かったもんねぇ?」「何か色々納得」などと言う声がし始めて。
紗英は今すぐにでもこの場から逃げ出したくてたまらないのに、グッと肩を押さえつけたままの尽の手がそれを許してくれなかった。
***
「貴様ら、いい加減黙らないかっ!」
さすがに娘の危機は、自分にとっても不利と思ったんだろう。
江根見則夫がざわつき始めた総務課フロアに響き渡る声で一喝して。
ひそひそと囁き合っていた社員たちが一斉にシン……と押し黙った。
「いい加減にするのは貴方の方ではありませんか? 江根見部長」
尽が紗英を取り押さえたままつぶやくと同時。
その声に、さすがに放置しておけないと思ったんだろう。
今までわざと目立たないよう身を縮こまらせていた風見斗利彦が、そそくさとこちらへやって来て、「あ、あのっ。皆の士気にも関わりますし……場を移しては如何でしょう?」と四人をうかがうように交互に見遣った。
だが尽は、そんな風見を一瞥すると、バカにしたようにふっと笑って。
「いえ、私はもうここで全部終わらせるので構わないと思っていますよ? そもそもこの状況はここにいらっしゃる貴方の可愛い部下の江根見紗英さんのご意向でもありますし、風見課長も高みの見物を決め込めるほど部外者と言う立ち位置ではないのはご自身が一番ご存知でしょう? 実際、私は風見課長がいつこちらへいらっしゃるのかな?と心待ちにしていたくらいです」
尽の言葉に風見が「な、何をおっしゃるんですか、高嶺常務っ。色々黙っているのと引き換えに、私のことは見逃して下さるという話だったではないですかっ」と白々しい反応をする。
尽はそんな風見へ「貴方の行動次第で少し猶予を差し上げますとは申しましたが、風見課長がしたことを全て無に帰すなどとお約束したつもりは微塵もありませんよ?」と声を低めて静かに睨み付けた。
風見は尽の冷ややかな視線に「ヒッ」と悲鳴を上げるとその場に凍り付いたように佇んで。
江根見則夫がそれを横目に、全てを遮断したいみたいに耳を塞ぎ座り込んでしまった娘を「バカ娘がっ」と舌打ちして見下ろしてから、「高嶺常務、いい加減になさって下さい。冗談が過ぎますよ?」と尽に鋭い視線を向けてくる。
そうしてついでのように、「貴方も、よもやあの話をお忘れになったわけではありますまい?」と声を一際低めて尽を脅そうとしてくるのだ。
その、さも切り札は自分にあると言わんばかりの不敵な笑みに、尽は嫌悪感もあらわに眉をひそめた。
「あの話? はて私には何のことやらさっぱり。ハッタリをかますのもいい加減になさった方がよろしいですよ、江根見部長」
尽は目の前のバカ部長が、尽を従わせるために告げてきた〝あの話〟とやらを思い出していた。
――高嶺くんが作った薬のせいで、キミのフィアンセは少なくとも三人の男たちに汚されたみたいですよ?
開発途中の薬の製造方法を盗まれるような管理体制を敷いていた愚かな企業と、己の浅はかさを呪うべきだと言われ、ついでに薬の開発責任者が尽だということを玉木天莉には吹聴済みだ、と高らかに宣言された。
――さすがに自分が作った薬のせいであんな目に遭わされたと知られては、玉木天莉へ会わせる顔はありませんよね?
――こちらには彼女が凌辱されている動画もあるし、玉木天莉の尊厳を守りたければ私の言うことを聞いた方が身のためだと思わんかね?
そう脅してきた江根見則夫に、そんな動画についてはもちろんハッタリだと分かっていたけれど、わざと従うふりをした尽だ。
直樹の報告で、あの部屋に隠しカメラが設置されていたことは知っている。
いつも女性を襲っている様子を隠し撮りして、後に被害者を脅して口封じしていたことも調べが付いている。
尽は直樹が回収した映像でアスマモル薬品のバカ男ども――沖村と伊崎と名乗り合っていた――が天莉を責めている動画だって確認している。
胸糞の悪い映像だったので、直樹に命じて機械の動作不良を装い、さも最初から何も撮れていなかったみたいに内容を消去させておいたが、江根見則夫は証拠なんてないのを知っていてあえて虚勢を張って来たんだろう。
(俺が何も知らないと思っての言動だろうが、残念だったな)
天莉が、自分が携わった薬品のせいで酷い目に遭わされたのを知っていることは先刻承知だったし、そもそもその天莉にしたって、ギリギリのところで救出済みだ。
何も知らない江根見則夫を泳がせるため、尽はあえて横野や風見、沖村や伊崎を押さえ、天莉が救助されたことを他言しなければ、少し猶予を与えてやると示唆して江根見則夫の言葉に脅されるふりをした。
もちろん、先に押さえておいた四人に関しても、余罪がたんまりとあり過ぎる。
猶予なんて言葉は彼らを従わせるための詭弁で、無罪放免にしてやるつもりなんて最初からないのだ。
(世の中には野放しにしてはいけない人間と言うものは少なからずいるからな)
今回の件に関わった人間は、程度の差こそあれすべからくそちら側だと尽は認識している。
(横野だって天莉が酷い目に遭わされていると知っていて助けようとしなかったんだ。同罪だろ)
さも自分も被害者のように紗英を責めていたが、自らの保身を優先して天莉を救出しようと動かなかった時点で、横野もアウトだと尽は思っている。
すっかり黙り込んでしまった紗英を見下ろしている横野へちらりと視線を流した所で、携帯が着信を知らせてきて。
画面を見ると直樹からだった。
『頼まれていた手配はもう済んでいます』
手短かに用件から入った直樹が、少し間を置いて『――ところで高嶺常務』と声を掛けてくる。
尽が「なんだ?」と答えると『場所はまだ移していらっしゃらないままですか?』と問うてきて。
「ああ。本人の希望でもあるからな」
尽の足元へ座り込んで耳を塞いでしまっている江根見紗英にちらりと視線を投げ掛けて鼻を鳴らしたら、直樹が『……でしたら今すぐどこか個室へ移動してください』と吐息を落とす。
その言葉に尽が異論を唱える隙も与えず低めた声音で直樹が言った。
『それ以上そこで話を続ければ、玉木さんの名誉に関わります。それに――』
そこで言葉を止めた直樹だったけれど、尽には長年連れ添った幼なじみが言わんとしていることが即座に理解できた。
直樹はきっと、これ以上この場で断罪を続ければ、考えの浅はかな他の三名はともかく、狡猾老獪な江根見則夫に、『高嶺常務から皆の前で恥をかかされた。パワハラを受けた』と反論させる隙を与えかねない、と言いたいのだろう。
至極冷静な直樹の指摘に、尽は天莉のことがあって頭に血が上っていた自分を自覚して苦笑する。
気持ちを切り替えるように小さく吐息を落とすと、「私の執務室へ移動する」と告げた。
***
尽がすぐ上のフロアにある常務取締役執務室への移動を促すと、その方が自分たちの痛手も少なくて済むとでも思ったのだろう。
風見斗利彦が二つ返事でうなずいて。
しゃがみ込んだままの紗英に「江根見さん、行こう?」と誘い掛けた。
風見としては一番紗英が声を掛けやすかったのだろうが、その途端則夫に「これ以上恥の上塗りをするな」と声を低められて、「ヒッ」と肩をすくめる。