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村を出てから三日目の日が暮れ、淡い光となって榛の木々の向こうに立ち去ろうとしている。
ユカリは、これからに対する不安と、義父の安否に対する不安が胸の中でない交ぜになっていた。魔導書などどうやって見つけたものか、と。そしてあの夜、チェスタを怯ませた火矢の射手は逃げ延びたのだろうか、と。
ユカリの内に渦巻く不安は足を重くし、眠りを遠ざけ、頭を曇らせた。
河原の脇に生えた老木の陰に腰を下ろし、手足の多い毛むくじゃらの不安が這い回るのを耐え、影に沈みつつある目の前の流れを見つめる。
遥けき霊峰の、人の目に触れたことのない水源より流れ来るも、人間の野原に下っては己の貴い出自も忘れてしまった素朴な小川だ。河原に転がる丸い小さな石たちも、遥か古の時代においてはその気高き渓流の従者として長い旅を伴った名のある巨岩だったのだが、今となっては記憶も彼方だった。
河原で滔々と流れる川音を聞きながら、ユカリは赤に染まる西の丘をぼんやりと眺めていた。目の前の焚火はぱちぱちと爆ぜ、火の精の粉挽きが眩い火の粉を振りかけて木の枝に刺さった兎の肉を焙っている。苦い煙の臭いと涎を誘う香ばしい匂いがあたりに漂っていた。
ユカリは道具を村から何一つ持ってきていなかったが、グリュエーの助けを借りて、何とか兎を捕り、火をつけることが出来た。ただし尖った石による兎の解体は上手くいかず、肉はズタズタになってしまった。
他にユカリが分かったことといえば、風は川の中を吹くことができないので魚を捕れない、ということだ。それも川に話しかければ可能かとも思われたが、ただ単に断られてしまった。川の中に住まう者たちは彼女の眷属なのだという。捧げものがあれば話は別だとのことだったが、ユカリは価値ある物を何も持っていなかった。川に兎の皮を譲ると、代わりに寄越したのは綺麗な丸い石一つだった。結局のところ価値観が違うので、まともな取引は難しいだろうという結論に至った。
「グリュエー?」とユカリが呼びかけると、風が髪を梳くように優しく吹く、「グリュエーは何で私を助けてくれるの?」と煙に目をしょぼつかせ、兎の肉を齧りながら言った。
「お願いされたから」とグリュエーは囁く。
「優しいんだね」とユカリに言われると、照れくさそうにユカリの頬を撫でる。
「グリュエーは西に吹く。ユカリと一緒に丘を越えるの」
「西風なのに?」
「今は違う。丘を撫でる緑風、遥か西方へ至る者、魔法少女と使命を携える風、グリュエーの名を背負う者」
そうしてユカリが風と話している内に、全ての人々の上に荘厳な夜が訪れる。人の野原に住まう少女が不相応に偉大な力を得てもなお気高い星々は無関心に天を巡る。立ち昇る煙も届かない渦巻の宮の桟敷で、幽玄なる竪琴の音に耳を傾けるばかりだった。
「そろそろ寝るよ」と言って、ユカリは出来るだけ地面を均して横になる。「そういえば風って寝るの?」
うつらうつらとしたユカリの言葉にグリュエーは答える。
「風は寝ない。吹くだけ。西から東へ。北から南へ。過去から未来へ。始まりから終わりへ。良いものと悪いものと。優しいものと厳しいものと」
そうしてユカリは眠ったが次に目覚めた時にどれ程の時が過ぎたのか、どれくらい寝ていられたのか分からなかった。しかし邪な者の蔓延る地上の暗闇を貫くその声を聞いて、叩き起こされるように目を覚ます。
狼の遠吠えだ。夢の中まで響き渡った。ユカリの短い人生の中でも何度か狼の遠吠えを聞いてはいた。しかし間近に落ちる滝の水音のように力強く、黄昏の境界の向こうから響いてくる喇叭のような不思議を伴った遠吠えは初めて聞いた。
応える遠吠えが聞こえない。ユカリが聞き逃したのか、狼の気まぐれか。遠吠えは一度きりで、それは夢の中で聞いたもので確信は持てなかったが、ユカリはすぐに立ち上がる。
心の中に忍び込もうとする恐怖を何とか追い払う。
今にも消えそうな火をグリュエーに煽らせ、残りの枯れ枝を全てくべる。川を背にして【微笑みを浮かべ】、魔法少女に変身する。武器になりそうなものは使い道のない美しくも短い杖だけだったが、それを構えて警戒する。
いずれの物語においても狼というのは忌まわしい存在だ。常に餓えて、家畜や子供を襲い、その腹を満たす。ただ邪であるだけならともかく、それなりの知恵を持ち、群れの力を知っている獣だ。とジニは語った。
一方でルドガンは狼を指して気高く誇り高き生き物だと語った。父母を愛し、伴侶を愛し、子を愛する生き物だという。とはいえ、爪と牙を持つ者の宿命から逃れることはできないと何度もユカリに念を押した。
「魔法があるのに狼を恐れるの?」とグリュエーが疑問を呈する。
「起きていてこそ、恐れていてこそ、警戒していてこそ、だよ。寝首をかかれたら魔法も何も意味がないんだから」
むしろ体が小さくなってしまうのは不利だろうか。いざとなれば川に飛び込んだほうがまだ安全かもしれない。火は朝まで持つだろうか。枯れ枝を探すために闇の中を彷徨う危険は火がどれくらい弱まった時に受け入れるべきだろうか。
そのようなことを考えながら不寝の一晩が過ぎた。
ユカリの強い警戒心と緊張感も連日の疲れが使役する睡魔には太刀打ちできず、夜空の白み始めた少し後に首根っこを掴まれて、夢も幻想も届かない深い闇の中へと放り込まれた。
深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
幼い少女が、まだ自他の区別もつかない少女が砂場で遊んでいる。掘り返し、山を作り、崩す。何度も何度も何度も。他には誰もいない。
次に目覚めた時もやはりユカリを叩き起こしたのは警戒心だった。まさか眠ってしまうとはユカリも思わなかった。命の危険を前にして眠るほど、自分が図太い人間だとは思わなかった。あるいはそれほどに疲れていたのかもしれないが。
ユカリを叩き起こした警戒心は、しかし狼のそれとは違った。針の先で頬を撫でるような、か細くも忌まわしい気配を感じたのだった。
それは魔導書の気配だ。ユカリの持つ魔導書や焚書官チェスタの持っていた魔導書と同じ気配だ。しかし今までに狩りで感じ取っていたような気配、聴覚や嗅覚を総動員した気配とは勝手が違い、距離も方向も推し量れず、ただ感じる以上のことは出来なかった。
曇った頭を努めて明らかにしようとするが、まだ睡眠が足りないように感じられた。
「グリュエー。狼の気配はある?」とユカリは呟く。
「ある。狼の気配が無い場所なんて大きな都くらいのもの」とグリュエーは答える。
少なくとも狼に襲われることは無かったが、チェスタが近くにいるのかもしれないと思うとゆっくりもしていられない。
野宿を続けるのも限界に近いように感じられた。集落にたどり着いたとしても、宿を得るのに先立つものがない。今は考えないことにした。
その時、魔導書とは別の気配、人の気配を感じた、背後に。そして目の端、肩の辺りに何者かの頭が見えた。ユカリは可笑しな悲鳴をあげて振り返る。
少年が、ユカリの臭いを嗅いでいた。
「おはようございます。お姉さん」と少年は不思議そうな面持ちで挨拶した。「どうかされましたか? 何か助けが必要でしょうか?」
年若いその少年の声は、透き通った朝の空気に似つかわしく明るく元気で、罪悪感の欠片もない笑顔を見せる。今さっきまでの行為にはあまり似つかわしくない。
ユカリは跳び起きて、飛び退いて、威嚇的な表情で答える。
「少なくとも私は君に助けを求めようとは思わないよ」
少年は不思議そうに尋ねる。「なぜです? 悪いようにはしませんが」
「もう悪いようにされたようなものだよ。一体何をしていたの?」
「ただ臭いを嗅いでいただけです。とても良い臭いだったので」と少年は無邪気な顔で答える。
ユカリは思わず自分の肩の辺りを嗅いだ。特に何の匂いも感じない、と思う。
「普通は、見ず知らずの他人の臭いを嗅いだりしないよ」
「へえ、そういうものですか。分かりました。気をつけます。もうしないので、もう警戒しないでください」
少年はただただ感心しているようだった。本当にそんなことも知らなかった、ように見える。
利発そうな少年で、栗色の髪はぼさぼさで、深い緑の瞳を輝かせている。やせっぽちだが、背筋を伸ばして堂々とした佇まいだ。身につけた毛織物はあまり上等とは言えないが、きちんと洗っているのか、さっぱりした印象だ。そして先がかぎ状になった杖を持っている。
ユカリの中に残っていたわずかな眠気はすっかり追い出された。
それと同時にいつの間にか変身が解けていることにも気づく。想像をきっかけに変身するのであれば、想像を断ち切る睡眠で魔法が解けてしまうのは、さもあらん。
ユカリは警戒しつつも、その無邪気で怪しげな少年に尋ねる。
「もしかして、この辺に集落があるの?」
「僕が身を寄せている村があります」と少年は言って、道の先へ振り替える。「ここから、ああ、木が邪魔で見えませんね。もう少し道の先まで行けば見えるかと」
ユカリは慌てて、丸い石に蹴躓きつつ、道に出て少し先まで駆けていく。
確かに村があった。なだらかな山の麓に大きめの集落があり、山腹にもいくつか家が点在している。河原からは木立で見えなかったのだと気づく。
ユカリは力が抜けてしまった。あと少し歩けば、夜の狼に怯える必要もなく、夜空の下ではなく屋根の下で、石の上ではなく寝台の上で、安全と安息を抱いて眠れたのかもしれなかったからだ。
少年もユカリを追って、隣へと歩いてくる。
「不躾で申し訳ないのですが」と少年はもじもじと言いにくそうに言う。「貴女は? 一体ここで何を?」
見知らぬ他人の臭いを嗅ぐ方がよほど不躾だろうに、とユカリは呆れつつも答える。
「えっと、はじめまして。ユカリです」グリュエーも耳元で名乗っていたが、少年に聞こえるはずもなかった。「その、村に気づかなくて、河原で野宿してたんだ」
「聡い者といいます。はじめまして」とフロウも礼儀正しく言い、そしてユカリの爪先から旋毛まで眺める。「見たところ、本を一冊持ったきりですが……」
改めて自分が怪しすぎる人物であることにユカリは気づく。もちろん、だからといって臭いを嗅がれるいわれはないと思うが。
フロウの疑惑を宿した瞳を見つめ返す。
「ええっと、その、道中で他の持ち物を盗まれてしまって」とユカリは適当な嘘をつく。
「そうなんですか!」とフロウ少年は心から驚き、ユカリを憐れんでいるようだった。「確かに最近、何かと物騒です。この辺りにも盗賊なんかがうろついているという噂もあります。分かりました。村に来てください。親切な人ばかりです。村長にも助けになっていただけないか、掛け合ってみましょう」
ユカリは嘘をついて良心を痛めつつも、身支度もそこそこに、とりあえず村まで案内してもらうことにした。