テラーノベル
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体育館の空気は、練習が佳境に入るにつれて、肌にべったりとまとわりつくような、重く湿った熱を帯びていた。
バレーシューズが床を噛むたびに鳴り響く、耳を刺すような鋭い摩擦音。激しいラリーが続くたびに上がる、地を這うような部員たちの野太い咆哮。
私は、壁際に一列に並べられたスクイズボトルの、冷たい結露が滴る表面を指先でなぞりながら、必死に乱れる呼吸を整えていた。
(……昨日の部室のこと、一瞬でも思い出したらダメ。……落ち着いて、紬)
首筋にいまも熱を持って残っているような、あの柔らかな唇の、吸い付くような感触。
耳元で、逃げ場を塞ぐようにして注ぎ込まれた「教育」という、支配的で傲慢な響きを持った言葉。
視線を上げれば、ネットの向こう側で角名先輩が、無駄のないしなやかな跳躍から、相手のスパイクを文字通り叩き落とす、鋭いクロスブロックを決めている。
彼は昨日の出来事なんて、最初からこの世に存在しなかったかのように、あまりにも淡々としていた。
その「いつも通り」な、感情の読めない三白眼の静寂が、余計に私の焦燥感をじりじりと、火で炙るように煽り立てる。
「……集合! 給水、三分!」
コーチの鋭い笛の音が鼓膜を突き抜け、選手たちが一斉にコートの脇へ、熱風のような汗を撒き散らしながら戻ってくる。
私は震える指先を隠すようにして、スポーツドリンクの入ったボトルを一本ずつ、機械的に差し出した。
そして、ついに「彼」が私の目の前に立つ。
「……お疲れ様です、角名先輩」
私は極力、彼の底知れない瞳と視線を合わせないように、ボトルのキャップ付近をぎこちなく掴んで差し出した。
けれど、角名さんはそれを受け取ろうとはしなかった。
「……四ノ宮。喉、乾いたんだけど。早くして」
低く、少し鼻にかかった、甘く気だるげな声。
反射的に見上げると、角名さんは額に張り付いた湿った前髪を無造作に払いながら、真っ直ぐに、私の瞳の奥を射抜いていた。
その瞳は、昨日部室で私を絶望的なまでに追い詰めた時と同じ、暗く澱んだ執着の色を宿している。
「あ、すみません。……はい、どうぞ」
もう一度、急いで差し出す。しかし、彼は私の手からボトルを奪う代わりに、私の細い「手首」を、決して逃がさないと言わんばかりの、暴力的なまでの力強さで掴み取った。
「っ……、」
心臓が喉元までせり上がる。
周囲には他の部員も、マネージャーの先輩も、すぐ隣では宮先輩たちが大声で笑っている。
なのに、彼は隠そうともせず、私の手首を自分の大きな掌で、まるで自分の所有物であることを確かめるように、骨の感触が伝わるほど深く包み込んだ。
「……これ、全然冷えてないんだけど。君がずっと、俺のこと考えて握ってたから熱くなったの?」
「え……っ、そ、そんなこと、……っ」
「嘘。……君の手、さっきからずっと震えてるし。……俺に触られて、そんなに熱くなってんの?」
角名さんは、掴んだ私の手首を離すどころか、そのまま自分の顔の至近距離まで無理やり引き寄せた。
ボトルのキャップを開ける動作を装いながら、彼は私の指先に、自分の唇をわざとらしく、密やかに、そして深く掠めさせる。
ボトルの表面を伝う氷水の容赦ない冷たさと、彼の手のひらから伝わる、激しい運動後の脈打つような熱。
その逃げ場のない温度差に、頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、平衡感覚が狂いそうになる。
「……ねぇ、紬。昨日、あんなにたっぷり『教育』してあげたのに。……まだ、俺のこと『尊敬する先輩』だなんて、マヌケな顔して思ってんの?」
他の誰にも聞こえない、極限まで音量を潜められた、けれど確実な殺意に近い独占の囁き。
彼はボトルの水を飲みながら、喉仏が上下するのを私の目の前で見せつけるようにして、空いた方の手の指を、私の指の隙間へと、執拗に、肉を割り込むようにして深く、深く割り込ませてきた。
公衆の面前で行われる、あまりにも露骨で、あまりにも歪な「恋人繋ぎ」。
「……っ、やめ、……誰か、見て……っ、角名さん……っ」
「いいよ、見られれば。……俺のものだって、全員に分からせる手間が省けるし。……それとも、他の奴に触られたいわけ? 君は」
角名さんは意地悪く三白眼を細めると、絡めた指をギュッと、骨が軋むほどに締め付けた。
「好き」という弱みを完全に、文字通り物理的に手中に収められた私は、大勢の部員たちがいるこの明るい体育館の真ん中で、彼だけの「所有物」として消えない刻印を深く押されているような錯覚に陥る。
「……ごちそうさま。……次の給水も、他の奴じゃなくて、君からがいいな。……絶対に」
彼は飲み終えた空のボトルを私の手に、拒絶を許さぬ力で押し戻すと、最後に親指の腹で私の手の甲の、一番皮膚の薄い場所をゆっくりと、粘りつくようになぞり、何事もなかったかのような「死んだ魚の目」でコートへと戻っていった。
残されたのは、彼の体温で赤く痺れたままの私の右手と、もうどこへも逃げ出す術を失った私の恋心だけ。
攻略不可の先輩による、逃走を許さない「甘い毒」。
私は、彼の巨大な掌の上で転がされているだけだと分かっていながら、もう、その熱から逃げ出す術を、何一つ持たなかった。
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