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体育館の空気は、練習試合特有の殺気を含んだ熱気で、肌がじりじりと焼けるように張り詰めていた。
コートの上では、稲荷崎の「怪物」たちが、遠征してきたチームを一片の慈悲もなく、冷徹に、そして効率的に叩き潰している。
私はコートの端、ベンチの影で、選手たちに渡すための清潔なタオルの準備に追われていた。スコアブックを脇に抱え、忙しなく動いていたその時——。
「あの、稲荷崎のマネージャーさん。……これ、落としましたよ?」
不意に背後から低く穏やかな声をかけられ、私は肩を揺らして振り返った。
そこには、さっきまで試合に出ていた他校の選手が、少し息を切らせて立っていた。
彼が差し出してきたのは、私が移動中にポケットから滑り落としてしまったらしいストップウォッチ。
「あ、ありがとうございます……っ! すみません、助かりました」
私が慌ててそれを受け取ろうと手を伸ばしたとき、その選手はストップウォッチをすぐには渡さず、少し照れたように、けれど真っ直ぐに私を見つめてきた。
「いえ……。あの、君、すごく一生懸命だなって、試合中からずっと見てて。……もしよかったら、この後、連絡先とか、……教えてもらえませんか?」
心臓が嫌な音を立てて、脈動を速める。
ナンパ、という言葉が頭をよぎり、断り方の言葉を探して、私は微かに唇を震わせた。
その、わずか一秒にも満たない沈黙。
背後から、太陽の光さえも凍りつかせるような「巨大な影」が、音もなく私を背後から完全に、冷徹に飲み込んだ。
「……何してんの。目障りなんだけど」
低く、地を這うような、聞いたこともないほど冷徹で、ドロりとした殺意に近い執着を含んだ声。
振り返らなくてもわかる。角名先輩だ。
彼はいつの間にか私の真後ろに音もなく立ち、私の細い肩に、所有権を永遠に刻印するようにゆっくりと、けれど骨の芯まで響く重みで腕を回した。
「あ、いや、彼女が落とし物をしたので……」
他校の選手が、動物的な本能で危機を察知したのか、気圧されたように一歩、また一歩と後ずさる。
角名さんの三白眼は、その選手を「今すぐ排除すべきゴミ」か何かを見るような、底冷えする光で射抜いていた。
図書室で見せる「意地悪な先輩」の仮面は、もう粉々に砕け散っている。そこにあるのは、自分のテリトリーを侵された肉食獣の、剥き出しの独占欲だった。
「……あ、そう。返したなら、さっさと消えて。……この子、今から俺の『教育』の時間だから」
「っ……、」
角名さんは相手の返事も待たず、私の肩を抱いたまま、強引に、私の足がもつれて浮くほどの速さで体育館の裏にある備品倉庫の死角へと引きずり込んだ。
重い鉄の扉の向こう、周囲の喧騒が急激に遠のき、埃っぽい薄暗い空間に、二人の乱れた呼吸だけが異様に大きく、湿っぽく響く。
「……角名、せんぱ……っ、痛い、です……っ!」
腕を掴む彼の長い指先が、細い骨に食い込むほど強い。
彼は私を冷たいコンクリートの壁に力任せに押し付けると、逃げ道を完全に断つように、私の頭の両脇に力強く、鈍い音を立てて両手を突いた。
顔が、鼻先が触れ合い、互いの睫毛が交差するほど近い。
彼の瞳は暗い怒りで濁り、激しい試合を終えたばかりの、沸騰するような熱い呼気が、私の首筋に容赦なく、逃げ場を奪うように叩きつけられる。
「……四ノ宮。君さぁ、自分が誰のものか、まだ一ミリも理解できてないみたいだね」
「ちがっ、私はただ、お礼を言おうと……っ」
「……お礼? あんな男に無防備に笑いかけて、連絡先まで教えようとしてた癖に? ……そんなに他の男の『所有物』になりたいの?」
「そんなこと、思ってません……っ! 離して……っ」
必死に拒絶する私の言葉を、角名くんは冷たく鼻で笑って遮った。
彼は私の顎を強引に、指が白く、私の肌に跡が残るほどの力で持ち上げると、逃げようとする視線を自分だけに、呪いのように固定させた。
彼の親指が、私の唇を力ずくでこじ開けるようにして、執拗に、皮膚が擦り切れるほどの強さで何度も何度もなぞり始める。
「……ねぇ、紬。俺以外の男に、そのマヌケな顔見せないでって、何度も言ったよね。……何回言えば、その足りない頭に刻み込めるわけ?」
耳元で、牙を剥くような低い、けれど甘い痺れを伴う戦慄の囁き。
彼は私の首筋、昨日「印」を付けたはずの場所に、今度は隠しきれないほどの深い、どす黒い痕を一生消えない誓いのように刻み付ける。飢えた獣のような熱い唇を、力強く、激しく押し当てた。
「……っん、……あ、やめ、……角名、さん……っ、誰か、来る……っ、見られちゃう……っ」
「いいよ、見られれば。……その方が、君が他の男に手出されないで済むし」
角名さんの独占欲は、もう「先輩」という枠を粉々に踏み砕き、暴走していた。
他校の男の影が、彼の極めて低い沸点を一気に越えさせ、理性を完全に焼き切ってしまったのだ。
攻略不可の境界線。
そこから溢れ出した彼の「本物の狂気」と「粘着質な執着」に、私は初めて、逃げられない本能的な恐怖と、同時に、彼に塗りつぶされることに安らぎを覚えてしまうような、どうしようもない甘い絶望に全身を貫かれていた。
「……ねぇ、紬。……もう一回、分からせてあげるよ。……君が、誰のものか」
そう囁く彼の瞳は、もはや私の知る「先輩」のものではなかった。