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三十三階層。
空は相変わらず抜けるように青く、海はエメラルドグリーンに光っていた。白い波が砂浜をなでては引き、潮の匂いが風に乗って流れてくる。景色だけなら、のんきな観光地そのものだ。
前方から歩いてくるサハギン四体と、海中から頭だけを覗かせたオオウツボを除けば。
サハギンたちはぬめった鱗を陽に光らせ、錆びた槍を握りしめてこちらを睨んでいる。海面に顔を出したオオウツボは丸い目をぎょろりと動かし、裂けた口をゆっくり開きかけた。唾液の糸が水面に垂れ、ぷつりと切れる。
全員の身体が、目に見えない糸で引かれたように張る。
ダリウスが一歩前に出て剣を構えた。エドガーはすでに魔導書を開き、低く詠唱を紡いでいる。オットーは盾と斧を構えたまま半歩ずつ位置を変え、敵との距離と角度を測る。ミラは素早く杖を構え、後衛を包むように薄い結界を張った。
エリーは一歩だけ下がった位置で、その動きを見つめていた。戦線には出ない。だが視線は外さない。
(……ここからは、この子たちと関わり合いが始まる……しっかり線を引かなきゃ)
オオウツボが、ぐわりと口を開いた。
口の縁で水が渦を巻き始める。海面が盛り上がり、集まった水流が重さを帯びていくのが見て取れた。喉の奥で、ごり、と何かが擦れる音まで聞こえた気がした。
「ブレス来る! オットー、シールドバッシュ!!」
ダリウスが叫ぶ。
しかし。
オットーは盾を前に突き出して突っ込まなかった。別の合図が入ったように、オオウツボへ一直線に走り出す。砂が跳ね、結界の内側から巨体が迫る。噛み付き一発で死ぬ距離へ、そのまま踏み込んでいく。
斧が振りかぶられる。
エリーはまぶたを少しだけ落とした。オオウツボの顎の角度と、オットーの踏み込みの深さが重なる。
その瞬間、エドガーの詠唱がぴたりと終わる。
「《魔導糸》」
乾いた音が鳴ったように感じた。
開いた魔導書から、細い糸と光る縫い針が数本飛び出した。針は海風を切り裂き、オオウツボの大口へ正確に吸い込まれる。
次の瞬間。
オオウツボの裂けた口が、がちん、と強く閉じた。縫い合わせられた唇の端から水がだらりと漏れるだけで、圧力の塊は吐き出せない。水流が行き場を失って、喉の奥でぐずり、と濁った音を立てた。
オットーの目がそれを捉え、すぐに細くなる。
迷いはない。
「——じゃあ、こっちだ」
巨体が弾かれたように向きを変え、サハギンの群れへ突っ込む。短く息を吐いた瞬間、皮膚の上を針でなぞられたみたいに空気がぴり、と張った。
「《阿修羅・二連》!!」
斧が跳ねるように加速する。
一撃目。振り下ろされた大斧がサハギンの首をはね飛ばした。骨が砕け、鱗が散り、頭部が宙で回って砂浜へ転がる。
間髪入れず二撃目。さらに速くなった斧が、二体目の首元を横から叩きつけるように薙いだ。鱗の首がへし折れ、胴から千切れる。二つの影が、少し遅れて砂に崩れ落ちた。
ダリウスの視界が忙しく動く。
縫われたオオウツボ。倒れたサハギン二体。砂に残る斧の軌跡。エドガーの手元から消えた針と糸。
(……なにが、どうつながって、こうなってる)
状況の組み替えが一拍遅れる。だが、その一拍の間にも、脚はもう砂を蹴っていた。
「《深き森》」
超集中状態。エリーがそう名付けた、ダリウスだけの“森”
低く呟いた瞬間、視界の端から余計なものが落ちる。
波の白さも、空の青さも、遠のく。残るのは足場の沈みと、槍の重さ、肩の向き。砂を蹴る音だけが近い。
気づけば、サハギンの背後にいた。
「《スラッシュ》」
剣が横一文字に走る。
サハギンの胴が二つに割れた。切り口の赤が遅れて滲み、上半身がずるりと砂に崩れる。ダリウスは振り抜いたまま腰をひねり、踏み換える。
まだ状況を掴めていないサハギンが、こちらを振り向いた。
「——《スラッシュ》」
振り下ろした剣が首を断ち切る。刃が抜けきるまで、顔の表情はそのまま残る。首だけが、ぽーん、と軽い音を立てて宙を回り、砂浜に落ちた。目だけが泳いでいる。
(……あとは、オオウツボ——)
視界の端で巨大な影が蠢く。ダリウスは息を整えながら、オットーの位置を探した。
(オットーからの撤退指示はまだ来ない……まて、一旦距離を取るか)
その瞬間、頭の奥に言葉が刺さり直す。
『——あなたの歪んだ慎重さ、卑屈な臆病さ、間違った成功体験が、この先の階層では仲間を殺すわ』
エリーの声だ。
(違う……違うだろ)
喉の奥がきしむ。歯が噛み合う。
(違う!! 俺が仕留めるんだ!!)
その瞬間、集中がふっと抜けた。
波の音が戻る。鳥の声が刺さる。血の匂いが急に濃くなる。肺が一気に膨らみ、息が乱れた。
「——っ、は、はぁっ、はぁっ……!」
膝が笑い、足が砂に沈む。胸が締まり、喉が乾く。立っているだけで苦しい。
(くそ……ここでか……!)
視界の端に太い影が横切る。
オオウツボの尾がしなる。巨大な鞭が、息の上がったダリウスへ薙ぎ払われようとしていた。砂が先に舞い、尾の風圧が頬を叩く。
(しまった……! 間に合うか、シールドバッシュで——)
呼ぼうとした、その瞬間。
「ガルゥ……ジィン——《伸縮紐》!」
背後からエドガーの声が飛ぶ。
「!?」
腰に巻き付く感触。透明な帯がぐるりと絡み、次の瞬間、体が後ろへ引かれた。
「うおっ——!」
砂を擦る音が耳元で鳴り、視界が横に流れる。オオウツボの尾が、さっきまで自分が立っていた場所を薙ぎ払った。尾の先が砂浜をえぐり、黒い筋を作る。
ダリウスは後衛の足元まで引き戻されていた。
砂まみれのまま起き上がる。腕が重い。息が熱い。だが、目の前ではすでに別の影が動いている。
オオウツボの首元、その死角へ滑り込む巨体。
「よぅ、久しぶりだなぁ」
オットーの笑い声が落ちる。軽く聞こえるのに、背中に冷えるものが走る。
「《阿修羅》」
低い呟き。
空気が震える。オットーの全身に黒い霧のようなものがまとわりつき、目がぐわりと開く。握られた斧が、常識を置き去りにした速度で振り抜かれた。
ドゴォッ——!
鈍い破砕音。
オオウツボの胴体が途中からごっそり引きちぎられ、断面からどろりとした血と臓物が砂へ流れ出す。巨体が、ゆっくり崩れた。
オットーが砂浜にどすんと着地した、その刹那。
「……っっぐあぁぁぁっ!」
腰の奥で嫌な引き攣れが走った。顔が一気に歪み、息が詰まる。
「いってぇぇぇぇ……っ、こ、腰が……!」
巨体ががくりと折れ、片膝を砂に突く。
「オットー!!」
ミラが反射的に叫び、駆け出そうとする。その肩を、すっと細い手が掴んだ。
「ダメよ!」
エリーの声が鋭い。
ミラが振り返ると、青い瞳が正面から止まっている。
「あなたはもう、前に出ちゃダメなの」
言葉が落ちた瞬間、ミラの足が止まる。握った杖がきし、と鳴った。
エリーは続けて言い切る。
「あなたが傷つけば——その瞬間、誰かが死ぬと思いなさい」
ミラの喉が動く。「でも」が形になる前に、唇が噛まれた。拳が震える。だが、その場から出ない。
「エドガー」
エリーが短く呼ぶ。
「わかってます」
エドガーはすでに魔導書に手を置き、息を吸っていた。
「ガルゥ……ジィン——《伸縮紐》!」
今度はオットーの腰に帯が巻きつく。
「おおっ!? ちょ、ちょっと待——」
巨体がぐいと引かれ、そのまま砂の上を滑ってくる。腰を押さえたまま情けない声を上げながら、オットーは後衛の足元へ回収された。
ミラがすぐに膝をつき、光を腰へ流し込む。淡い光が滲み、オットーの眉間の皺がわずかに緩む。
「すまん……情けねぇな、ぎっくり腰なんざ」
「いいから黙ってて。動いたら治りが遅くなるから!」
ミラの声が裏返り、手は止まらない。
その横でエドガーはマナポーションを飲み干し、口元を拭った。
「……ふぅ。だいぶ魔力を持っていかれましたね、しかし——」
砂に手をつき、肩を上下させているダリウスが目に入る。悔しさのせいか、歯を食いしばったまま息を整えようとしている。
(まだだ……まだ、十秒も保てない……)
エリーはその姿を見つめた。
(……エドガーに簡易術式を組み込ませたのは正解ね。再現率百なら、威力も十分。老眼でも発動は速い。
オットーも……想像以上に《阿修羅》を“扱えている”。呪いの制限が、いい方向に働いてるわ)
小さく息を吐く。
(でも……いちばん驚いたのは、そこじゃない)
連携がもっと崩れると思っていた。型を壊した直後の戦場で、互いの手札が読めずに噛み合わず、どこかで自分が介入しなければならない、と。
(状況の変化に対する瞬間的な判断力。即興で戦術を組み替える柔らかさ。
……長年の経験がそうさせるのかしら。それとも——)
視線を、ダリウス、オットー、エドガー、そしてミラへと順に滑らせる。
(お互いを信頼し過ぎている、なんて言ったけれど……その“過ぎた信頼”ですら、今の彼らの力になっている)
潮風が髪を揺らした。
(……これなら、いける)
砂浜には、倒れた魔物の残り香と、短い沈黙が落ちている。遠くで波が返り、白い泡が弾けた。
三十三階層での旅路は、こうして予想より早く「形」になり始めていた。
#魔法