私に将嗣との過去があるように、朝倉先生に他の女性との過去があったとしても仕方が無いこと。
何がこんなにショックなのかが、自分でもわからなかった。
頭の中が、真っ白になってしまって、何も考えられない。目の前にいる真由美さんが、何か言っているのも、まるで音の出ない画像を眺めているような現実感の無さだ。
シングルマザーで冴えない私が、朝倉先生と恋人同士になれたのを不思議に思っていた。
妊娠8か月で亡くなってしまった朝倉先生の奥さんとお腹の中の赤ちゃん。
もしかしたら 私と美優は ”その身代わり” ではないのか。
そんな考えがふと過った。
バカな事を……と、思いながらもその思いを打ち消せないのは、自分に自信がないからだ。
若くもない、美人でもない、いつもボロボロで朝倉先生に似つかわしくない。それなのに朝倉先生が自分と付き合っているのは? と、考えた時、その理由が見つからない。
でも、亡くなった奥さんとお子さんの身代わりなら納得がいく。
そんなことを考えちゃダメなのに、一度その考えに辿り着いたら拭えなくなってしまった。
あんなにも優しく慈しみ愛を注いでくれる朝倉先生を疑うような事を考えてはいけないのに……。
優しさも慈しみも愛もすべて代わりに受けているようにさえ思えてしまう。
不意に部屋のドアが開き、リビングへ由佳さんと朝倉先生が戻ってきた。
朝倉先生の顔を見た時、私は泣きたくなる気持ちを抑え、無理して微笑んだ。
真由美さんから朝倉先生の過去を聞き出して、悪い考えに囚われているなんて言えない。
由佳さんは朝倉先生と同じ優しい瞳で私を見つめながら話し出した。
「めんどくさい弟だけど、見捨てないでやってね。よろしくね。夏希さん」
「こちらこそよろしくお願いします」
返事をしたが、悪い考えに囚われ足元が崩れそうな今、これが正解の言葉かわからなかった。
ほんの15分前までは、朝倉先生と熱いキスをしていたのに、今では、指先が氷のように冷え切っている。
それでも精一杯の笑顔を繕い、由佳さんと真由美が帰って行くのを玄関先で見送った。
扉が閉まると朝倉先生と私と美優の3人になると妙に緊張する。
「夏希さん、姉が急に来て悪かった。驚いたよね」
眉根を寄せ、不安げな朝倉先生に覗き込まれて、その視線から逃れるように抱いている美優に視線を落とし、大丈夫ですと首を横に振る。
逃れるようにリ足早にリビングへ戻り、ベビーベッドへと美優を寝かせた。
話題を変えたくて、渡しそびれていたスパーリングワインを取り出す。
「お土産に買って来たんですけど、お口に合えば良いのですが……」
朝倉先生が、「ありがとう」と受け取り袋から取り出した。片手を招くように上げた可愛い猫のラベルに、フッと表情が緩ませ「冷やしておこう」とキッチンへと向う。
気まずい雰囲気から逃れられてホッと息をつく。
本当は、直ぐにでも、朝倉先生に亡くなった奥様の事を聞きたかった。
でも、その事を聞いたら真由美さんから教えてもらった事が分かってしまう。
どうしていいのかわからずに、視線を泳がせると、ベビーベッドが目についた。
「今日、用意してくださったベビーベッドって、どなたかのおさがりなんですか?」
思い切って聞いてみると、朝倉先生は何かを思い出したようにふわりと笑う。
「甥や姪が使ったものなんだ」
その言葉にホッとする。けれど、これ以上突っ込んで聞く事も出来なくなってしまう。
「夏希さん、真由美から何か言われた?」
「えっ?」
「さっき、泣きそうな顔をして無理に笑っていたから……心配事があるなら言ってほしい。二人で解決していこうよ」
朝倉先生は、私の手を包み込んだ。
「翔也さん」
私は焦って手を引いたが、朝倉先生は手を離してくれない。
「夏希さんの心に不安があるなら吐き出して欲しい」
手を握られたまま、真っ直ぐに見つめられてそんなことを言われたら逃れるなんて出来ない。
「あの、翔也先生の奥様が事故に遭われてお亡くなりになったと伺いました」
その言葉を聞いて、朝倉先生の眉がピクリと動き、はぁーっと大きく息を吐いた。
「夏希さん。今日は、その話もするつもりだったんだ。姉貴が来てメチャクチャになってしまって、すまなかった」
私は「いいえ」と首を振る。
「聞いてもらってもいいかな?」
その言葉に頷くと朝倉先生は窓の外に視線を送り、ゆっくりと話し出した。
「以前結婚していて、その結婚生活が突如として終わりを告げたのは、4年前。今日みたいに晴れて青空が広がっている日だった。彼女は買い忘れがあるから近くのコンビニまで行くと言って部屋を出て行った。しかし、何時まで待っても彼女は帰って来ない。携帯電話も繋がらず、私が警察からの電話で病院に駆け付けた時には、既に彼女もお腹の子供も冷たくなっていたんだ。原因は、コンビニの手前で暴走車に轢かれたと説明があった」
朝倉先生は、眉根を寄せて瞼を閉じた。
私は掛ける言葉が見つからず、重なる手に力を込めた。
そっと瞼を開いた朝倉先生は、その手を見つめ話しを続ける。
「何故、あの時、一緒に行かなかったのか、一緒に行っていたら彼女もお腹の子も助かったのではないかと自身を責め、自暴自棄になってしまった。姉たちにも随分と心配を掛けたと思う。どうにか立ち直ったけれど、心の中は、冷え切ってしまっていたんだ。何を聞いても、何を見ても気持ちが動かない日々が何年も続いていた」
朝倉先生は、私が握る手に空いているもう片方の手を重ねた。温かい大きな手が私を包む。
「去年の12月夏希さんに出会って、私の世界がひっくり返ったんだ」
「私?」
「そう、フラフラと車道に出て行く夏希さんを支えたあの時。まさか、出産に付き合う事になるとは思わなかったよ」
と、朝倉先生は思い出したように顔をほころばせた。つられて私もフッと緊張が緩む。
「すみません。とんでもない事になってしまって、衝撃的でしたよね」
「確かに、衝撃的だった。冷えた心の中に温かな光が差し込んだ気がした。美優ちゃんの誕生は私にとって天使が舞い降りた感じだったよ。生命の神秘。命の尊さ。色々な事を一度に教えてもらった。そして、私の心が再び動き出したんだ」
朝倉先生が、以前に美優の事を「天使だよ」と言っていたのを思い出した。
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