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4月の上旬、アンドレイから頼まれていた日本大使館主催の桜を楽しむ会が開催された。
4月だというのに、プラハはまだまだ肌寒い。
日中の最高気温は10℃前後で、朝晩は5℃を下回ることがほとんどだ。
カタリーナによると、5月になれば少し暖かくなり、6月からは半袖で過ごせるくらいの気候になるそうだ。
こんな寒さなのに、不思議なことに桜はもう満開になり見頃を迎えていた。
今日私が訪れているのは、プラハの中心地にある日本大使館だ。
プラハ城やカレル橋といった有名観光地にも近い場所に位置するここは、敷地内に桜の木がある。
その桜を建物の中から眺められるホール内で立食式のレセプションパーティーが開かれていた。
ホール内には、ドレスアップした男女が挨拶をしながら、会話を楽しんでいる。
日本人ももちろんいるが、意外と現地のチェコ人の方が多いようだった。
『環菜、緊張してる?今日の環菜はドレスアップして誰よりも綺麗だから自信持って!』
アンドレイが私の顔を覗き込んで、私を励ますように声をかけてくれる。
私は安心させるように微笑み返した。
今日の私は、桜にちなんで淡いピンク色のサテン素材のドレスを身に纏い、胸下まで伸びる髪は、後れ毛を散らしたシニヨンにしてまとめている。
『それにしても、なんだか環菜はこういう場に慣れている感じがするね。ドレスも着こなしているし』
感心するようにアンドレイが頷いた。
それもそのはずだ。
なにせ私は女優としてこういう場に何度も出席する機会があったし、役としても演じたことがあった。
(そう、今日もこれは演技の場だと思えばいい。誰も神奈月亜希だと分からないくらい、違う雰囲気の人物を演じよう。清純派とか癒し系とは程遠い、上品で洗練された大人の女性で、アンドレイのパートナー役だ)
私は軽く瞼を閉じると、演技プランを組み立てていく。
こうやって役に入り込んでいくのが私の習慣だった。
目を開けた時には、私はもう別人なのだ。
アンドレイのエスコートを受けながら、私たちはアンドレイの知り合いだという人たちに挨拶をしていく。
基本的にこの場は英語が共通言語のようで、私も問題なく会話を理解することができた。
『今日はずいぶん美しい女性をパートナーに連れてるじゃないか』
『カタリーナの友人なんですよ。彼女は日本人なんです』
『初めまして、秋月環菜と申します』
アンドレイは毎回こんなふうに紹介してくれて、私はそれに従って挨拶し、背筋を伸ばして上品な所作で美しく微笑むようにした。
彼が挨拶するのは、だいたい地元の議員やその関係者のようだ。
たまにプラハに会社を構える日系企業の日本人社長もいて、わずかに私は身構えたのだが、特に気付かれる様子はなかった。
『思った以上に環菜が堂々としていて驚いたよ。環菜がいてくれるおかげで、日本の話題になった時にも助かってるしね』
アンドレイの役に立てているようで一安心だ。
この演技が褒められているような気がして、なんだか嬉しかった。
私は休憩がてら立食スペースへおもむき、スパークリングウォーターの入ったグラスを手に取り口に含む。
やはり相当緊張はしていたようで、カラカラに渇いた喉が潤っていく。
アンドレイも同じくワインで喉を潤しているようだ。
『アンドレイ』
ちょうどその時、誰かが近づいてきてアンドレイに親しげに声をかけた。
その声になんとなく聞き覚えがあって、プラハに知り合いなんていないのにおかしいなと思いながら私も振り向く。
するとそこには、先日カフェで助けてくれた日本人男性がいたのだった。
あの時と同じ、ニコニコと表現するのがぴったりな王子様スマイルを浮かべている。
『やぁ、|智行《ともゆき》じゃないか。今日はお招きありがとう』
『こちらこそ来てくれてありがとう。ところでそちらは?』
2人は親しげに握手を交わすと、その日本人男性は今度は私に視線を向けてきた。
(お招きありがとうってことは、主催者側の人間‥‥?つまり日本大使館に勤める外交官ってことかな?)
『紹介するよ。こちらは今日の僕のパートナーの環菜。僕の恋人の友人なんだ。環菜、こちらは日本大使館の智行だよ』
『初めまして、秋月環菜です』
『桜庭智行《さくらばともゆき》です。でも初めましてではないですよね。この前お会いしたと思うんですが、覚えていませんか?』
知り合いという程でもなかったので、便宜上、私は初対面の挨拶をしたのだが、桜庭さんは逆に先日のことを話題に上げた。
『え?先日も会ったって?環菜は智行と知り合いなの?』
アンドレイが予想外だというふうに驚いたような顔で私と桜庭さんを交互に見ている。
『知り合いというか、この前街で困っていた時に同じ日本人として助けて頂いたんです。お名前とかは知らなくて。桜庭さん、その節はありがとうございました』
『なるほど、そういうことね』
説明すると、合点が言ったというようにアンドレイは大きく頷いた。
2人の話によると、アンドレイと桜庭さんは、在外公館勤務の外交官と現地の若手議員という立場で何度も過去に会っているそうで、年齢も近いことから親しくなったそうだ。
アンドレイとの会話がひと段落すると、桜庭さんは私に話を振ってくる。
『環菜さんはこちらにお住まいなんですか?先日は旅行とおっしゃってた気がしたんですけど』
『えぇ、まぁ。今はアンドレイの恋人の家に居候させてもらってるんです』
『なるほど。じゃあしばらくこちらに滞在されるんですね?』
『その予定です』
桜庭さんはチェックリストの事項を確認していくように私に質問してくる。
私の答えを聞いて桜庭さんが一瞬ニヤッと笑った気がしたが、次の瞬間にはいつもの笑顔だ。
相変わらずあの甘い王子様のような笑顔だが、どうも私はこの人が怖いと本能的に感じる。
なんというか、この笑顔の裏で何を考えているか分からない底知れなさを感じるのだ。
だって、顔は笑顔を作っているのに、目が笑っていない。
演技をする人間としては、こういう細かなところが気になってしまう。
ただ間違いなく言えるのは、この人は異性に相当モテるであろうということ。
普通の人は目が笑ってないところまで気づかないくらい彼の笑みは自然で理想的な笑顔なうえに、端正な顔立ちと日本人離れした長身、三揃いのスーツを着こなすスタイル、そのすべてが完璧だった。
(美男美女とずっとこれまで仕事をしてきたけど、なかなかこの容姿レベルの男性は芸能界にもいなかったな。一般社会でこの外見だと、さぞ目立つだろうから逆に大変そうかも)
私は観察しているのがバレないように、凛とした態度で上品な微笑みを作りながら、彼を盗み見ていた。
すると桜庭さんが、おもむろに口を開き、思いがけないことを言い出した。
『アンドレイ、少し環菜さんを借りてもいいかな?ちょっとお願いしたいことがあって。日本人に手を貸してもらえるとすごく助かるんだ』
『環菜がいいなら問題ないよ。環菜、どう?』
『えっ?えぇ、私でお役に立つなら‥‥』
こう言われてしまうと断れず、私は了承しながらコクリと頷く。
本当は日本人にお願いしたいことというワードが気になって、できれば避けたいところだったのだけど。
『じゃあ少しお借りするね。環菜さん、こちらへ一緒に来てもらえますか?』
手招きされ、私はアンドレイに目配せしたあと、桜庭さんの後ろに続いた。
どうやら外に行くようだった。
「せっかくだから桜を近くで見たくないですか?」
2人になると、桜庭さんは英語から日本語へと言葉を切り替えた。
それに|倣《なら》って、私も日本語で答える。
「そうですね。なかなか見られる機会もないですし。ところで、私にお願いしたいことって何ですか?」
「あとでちゃんと説明しますよ。とりあえずこちらへ」
そう言うと、彼は慣れたように手のひらを上に向けた手を私へ差し出してきた。
あの王子様風の笑顔に、この自然な仕草のエスコートはなんとも絵になる。
思わず私も一瞬ドキッとしてしまう。
彼の手のひらの上に軽く手を乗せ、そのエスコートに応じる。
日本にいるとこんなふうにエスコートされる機会はほぼないから、慣れなくてなんだか変な汗をかいてしまいそうだった。
(ダメダメ!今の私は上品で洗練された大人の女性で、アンドレイのパートナー役なんだから。こんなの当然のことなんだから)
一瞬だけ軽く目を閉じ、再び自分に役を落とし込んだ。
エスコートされたまま連れて行かれたのは、満開に咲き誇る桜の下だった。
時折風に吹かれてピンク色の花びらが雪のようにチラチラと舞っていて幻想的だ。
「きれいですね‥‥」
思わず感嘆のため息がこぼれ落ちた。
思えばこうやって間近で桜をゆっくり見るのなんて何年ぶりだろうか。
桜のシーズンは人が多くなかなか行けないし、ドラマや映画の撮影で訪れたとしても、鑑賞するどころではなかったのだ。
「喜んでいただけて良かったです。さて、お願いしたいことについてですが、これは仕事ではなく、僕個人からのお願いなんです」
桜庭さんはエスコートの手を離し、私と向かい合うと、あの笑顔を浮かべて話し始めた。
キラースマイルとも言うべき笑顔を向けられ、桜を見て和んでいた私の心は一転して警戒を強める。
(桜庭さん個人のお願い?そんなの、なんだか穏やかじゃないものの気がするんだけど‥‥)
私の警戒を見抜きながらも、彼は私の目をじっと見つめながら口を開く。
彼が放ったその言葉は、予想を超えた驚きの内容で、私はただただ目を丸くした。
ーー「僕の婚約者を演じてくれませんか?」
そう、こんな突拍子もないものだったのだ。