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当たり前だけど、そこに岳紘さんの姿はなかった。だって今頃彼は、あの女性や男の子と一緒に楽しい時間を過ごしているはずなのだから。
バレないように距離をあけて後を追ったため、女性の顔をよく見ることは出来なかった。でもその雰囲気だけで、魅力的な人であろうことは何となく分かって。
どちらかと言うと大人っぽいと言われることが多い自分とは異なり、彼女はパッと見た感じ明るくて柔らかな人に思えた。岳紘さんは、そう言った女性が好きだったのかと余計にショックで。
鬱々とした気持ちは晴れそうにない、落ち込み気味なままいつもと変わらない時間に夕食の支度を始めるとスマホが鳴った。特別なメッセージの受信音、これは岳紘さんからの時にだけ鳴る音楽で。
『ごめん、今日は残業で遅くなるから俺の分の夕飯は用意しなくていい』
残業なんて嘘ついて、そうしてまで長く彼女の家にいたいのだろう。思い返してみれば、岳紘さんが残業で遅くなるのはいつも木曜日だった。だから私は、木曜日に手間のかかる仕事があるのだろうと思い込んでいたのだけど。
本当は全然違っていたのね。隠れて自分が想う相手との時間を過ごしていただけ、ずっとなにも気付けなかった自分はなんて愚かなのだろう。
『分かったわ、無理しないでね。私は先に休んでおくわ』
本当は、嘘をつかないで! と彼を責めたくもあったが、今感情的になっても私が苦しくなるだけ。冷静になって、きちんと証拠を集めておかなくては。
そう考えて、奥野君に「また木曜日に」とだけメッセージを送っておく。
……この日、岳紘さんが帰宅したのは深夜0時を過ぎてからだった。
「昨夜に母さんから電話があって、雫に渡したいものがあるから取りに来て欲しいそうだ」
「そうなのね、わかった。こっちからお義母さんに連絡をしてみるわ」
テーブルに用意された朝食、私はいつもの自分の席に座って岳紘さんの話に返事をした。どうやら私が昨日あの駅にいた事はお義母さんから聞いてはいないようで、いつもと彼の様子は変わらなかった。
それが余計に心に引っかかって、何とも言えない気持ちにさせられる。あの時、お義母さんはどういう意味で「そんな場所に?」と呟いたのだろうか? それをハッキリと出来ないもどかしさもあって、頭の中がグルグルしていた。
「じゃあ、行ってくる。今日は遅くならないように帰ってくるから夕飯は用意しておいてほしい」
「ええ、じゃあ準備しておくわね」
そう言って外に出ていく岳紘さんを見送った後、仕事に行く前にお義母さんへの連絡を済ませておこうとスマホを手に取った。そこには新着メッセージの文字、その送り主は|奥野《おくの》君だった。
『昨日は俺が喫茶店にいる時間にはアイツは帰りませんでしたが、雫先輩は大丈夫ですか?』
昨日、奥野君はあの後も岳紘さんがそこを通るのをギリギリまで待っていてくれたのかもしれない。彼にも家庭があるのに申し訳ない事をしてしまったと思う反面、何故かそこまでしてくれたことが嬉しくて。
自分の為に誰かが何かをしてくれる、そんな優しさに縋りたいほどに私の心は弱ってしまっていたのかもしれない。
「大丈夫、奥野君のおかげで意外と冷静に対応出来ていると思う。もう少しの間、岳紘さんの行動を確認したいと思ってるんだけど協力をお願いしてもいいかしら?」
『もちろんです、雫先輩が納得出来るまで俺は力になりますよ』
今の自分の状況を落ち着いて思い返してみると、おかしなくらいに複雑な事になっているなと感じずにはいられない。誰よりも愛しているはずの夫の行動を、自分を慕ってくれている後輩に協力してもらい監視している。
……この気持ちや執着を本当に愛情だと言えるのか、それすら自信が無くなってしまいそうで。それでもそれを止めることが出来ないくらいには、自分は泥沼に浸かっているのかもしれない。
「ごめんなさい、結局は巻き込んでしまって。全てが落ち着いたら、奥野君にはきちんとお礼をするから」
『そうですね、期待してます。なんて冗談ですよ、雫先輩に見返りを求めるつもりはないんでそう気にしないでください』
結局のところ、こうやって私を甘やかしてくれる奥野君に縋ってる。自分が岳紘さんから与えてもらえないものを、後輩の彼に強請ってるのかもしれない。
狡いな、と思わないわけじゃない。それでも一方通行に愛し続けることに疲れ、誰かに想われる幸福を知ってしまうとそれを手放すことはなかなか出来なくて。
「好き」や「愛してる」という感情は奥野君に対して今はないけれど、もしかしするといつかは……そんなことを頭の隅で考えながら、自分も仕事の為に家を出た。